文政の阿木騒動
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槙平の開墾失敗
槙平は風神神社の林道を更に上った所にある。山の中にありながら比較的平らな土地で現在は営林署の小屋が建てられている。
1824年 (文政7年/江戸後期)、この槙平を開墾し 10 年以内に田畑十町歩とする計画を阿木の領民が申し出た。御上の岩村藩は財政難のまっただ中であったが、将来の増収を見越したのか、単に役所の無駄事業体質だったか、兎に角、岩村藩からの貸し付けも取り付けて槙平の開拓が行われることとなった。
しかし 1828年 (文政11年/江戸後期) の初の年貢免定では計画の半分の高しか上げることが出来なかった。藩はこの状況から後述の阿木騒動の折に開拓失敗の咎で領民を処罰している。
文政の阿木騒動
1828年 (文政11年/江戸後期) 12月、二十七会講の今後の扱いを決める集会が徒党を組んで御上に反抗しようとした行為と見なされ、参加した頭取連中の取り調べが行われる騒ぎが起きた。
明けて2月5日、阿木村の代官であった
阿木の取り調べを詳しく進めて行く段階で、郷蔵に納められているはずの年貢の量が不足しているのが見付かった。しかし年貢免状には「検量は全て済んだ」と記されている。この事から代官ぐるみで年貢未納の隠蔽が行われていた事が発覚したのである。
この年貢未納に絡んだ談合で逮捕者は一挙に増加し、同年4月24日までには 152 人に上る庄屋・不納百姓が領内処払い、過料、縄手錠、蟄居、入牢に処されるなど、未曾有の大事件に発展したのである。逮捕者は年貢不納ばかりではなく、取り締まり不行き届きの庄屋、徒党の頭取、また先の槙平開墾に失敗した者も含まれていた。
橋本祐三郎もしばらくは身柄預かりであったが、取り調べの上に入牢、そして同年4月3日に斬首刑に処せられている。これは苗字帯刀の剥奪などもある中で最も厳しい罰であることから、年貢不納の荷担だけではなく公金横領の咎による死罪であろう。
橋本がどのような意図で年貢不納に荷担していたのかは分からないが、橋本の担当していた村々の中でも東野や飯沼などでは出ていない事や、また話の大本となった横領疑惑からも、年貢納入の管理を庄屋に丸投げしていたか、村の有力者との癒着があったと考えられる。
橋本代官の処刑、阿木領民の一斉取り締まりは、藩政改革に対する見せしめとして、汚職・不正行為に対する厳罰化、領民徒党への弾圧を示したものと思われる。この翌年に慶安御触書、六諭衍義大意の木版を配布して領民に勤労と封建道徳を説いたのもこの騒動に対する意識の現れだったのであろう。
戯曲版「阿木騒動」
祐三郎は重税と度重なる凶作で困窮していた領民の生活を按じ、不足分を豊作の年に埋め合わせるようお目こぼしを行っていた。これが発覚し死罪となった、という戯曲話も存在している。
参照
参考文献
- 文政の阿木騒動と代官橋本祐三郎 (樋田薫)