文政の阿木騒動

提供:安岐郷誌
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田中の若王子神社

文政の阿木騒動(ぶんせいのあぎそうどう)は江戸時代の後期、岩村藩文政の改革時に阿木で起きた、開墾失敗、徒党行為、年貢未納および帳簿改竄による未曾有の大量処罰事件。

目次

槙平の開墾失敗

槙平風神神社の林道を更に上った所にある。山奥にありながら比較的平らな土地が広がっている場所である。

1824年 (文政7年/江戸後期)、この槙平を開墾し10年以内に田畑十町歩 (約100,000㎡=約10ヘクタール) とする計画を阿木の領民が申し出た (槙平一件覚帳)。当時の岩村藩は財政難のまっただ中で国力増強策を模索していた時である。この事業への藩からの貸し付けも取り付けて槙平の開拓が行われることとなった。

しかし 1828年 (文政11年/江戸後期)、初の年貢免定では計画の半分の高しか上げることが出来ず、この開拓を行った領民は後の阿木騒動の折に処罰されることとなった[1]

  1. ^ 実際に槙平へ行ってみると交通の便さえ良ければ開拓され一集落できていただろうと思える土地である。

御理解大意

1828年 (文政11年/江戸後期)大船山払木一件という事件が起きた。大船山[MAP]とは上矢作の山だが具体的に何処の村でどのような事が起きたのかは分かっていない。ただしこの件に関して同年6月に代官橋本祐三郎(はしもとゆうざぶろう)の名で阿木の村々へ書状が廻っている。

丹羽瀬清左衛門殿御理解大意

右の通り上村 (上矢作) 五ヶ村等者共岩村不埒の次第これあり、吟味中には候へども多くの役人ども数日まかりあり、まだ御礼しも相すまず候へども、この節御百姓第一の耕作時にあり格別のお召しをもって一度帰村仰せ付けられ、耕作の時には御上にも御大切に御召し御百姓共御憐慈なしくだされ候、右様厚き有り難き御召し承知奉ってその村々大小の御百姓へも念入りに申し聞かせ農業ひびに精をだして御年貢納むべき申義は勿論一統御百姓連々取り直し万事御上御厄介の節など掛け奉祭らずよう平常心掛け申すき候 若し油断つかまつり出不精にて御年貢など難渋に及び御上のありがたき御思召しをだしに仕候に相当の天罰逃れがたく、いずれの村々へも御上のありがたき身分をわきまえ作業に精を出すこと、御百姓第一の勤めき事にて左様不筋の儀取りはからう者共にても御上より厚き慈悲なられ候小前末々に至る迄御上の有り難き儀を日々夜々に敬ひ申すべき様若きも申し付けべく候[1]

子六月九日 橋本祐三郎

上矢作の者共が不埒なことを起こし吟味中であるが、大切な農耕期であるため特別に帰村を許す。これは家老丹羽瀬殿の農業に対する理解である。年貢の難渋などで御上に厄介をかければ処罰は免れない。この恩義を無にせぬよう農民は日々作業に専念して年貢を納め、またこの有り難い慈悲を領民共によく言い聞かせるように、と言った内容が書かれている。

この大意は文政の改革での「農民は勤労に努めよ」という丹羽瀬の意志を示したものであろう (財政難中に少しでも貢賦を上げる意図もあるだろうが)。この時点では橋本代官も丹羽瀬側の意見で勤労と封建を説いている。

  1. ^ 「文政の阿木騒動と代官橋本祐三郎」より。6月11日に青野村へ廻った書状を組頭利右衛門写し取ったものという。この写しの所在を探しています。ご存じでしたらノートに記載してください。

文政の阿木騒動

1828年 (文政11年/江戸後期) 12月、阿木の若王子神社で行われた二十七会講の対策集会が徒党行為と見なされ、取り調べを受けた庄屋・頭取連中に禁足 (外出禁止) が言い渡される騒ぎが起きた (二十七会講参照)。

明けて2月5日、阿木村の代官であった橋本祐三郎が「御上の金子の著しい間違い」、つまり公金横領または不正流用の疑いで岩村の商人 3 人と共に逮捕された。同日夜 (または翌日朝) に岩村藩の手代・同心が 10 人ほど阿木に入り、先の二十七会講の件で禁足に処せられていた庄屋、組頭、百姓代の 10 人をしょっ引いて投獄した。これは橋本との関連を吟味するためであろう。

阿木の取り調べを詳しく進めて行く段階で、郷蔵に納められているはずの年貢の量が不足しているのが見付かった。しかし年貢免状には「検量は全て済んだ」と記されている。この事から代官ぐるみで年貢未納の隠蔽が行われていた事が発覚したのである。

この年貢未納に絡んだ談合で逮捕者は一挙に増加し、同年4月24日までには 152 人に上る庄屋・不納百姓が領内処払い、過料、縄手錠、蟄居、入牢に処されるなど、未曾有の大事件に発展した。逮捕者は年貢不納ばかりではなく、取り締まり不行き届き、先の徒党、また槙平開墾に失敗した者も含まれていた。ただし橋本の担当していた村の中でも東野や飯沼など阿木以外での逮捕者は出ていなかったようである[1]

橋本祐三郎もしばらくは身柄預かりであったが、取り調べの上に入牢、そして同年4月3日に斬首刑に処せられた[2]

橋本代官の処刑、阿木領民の一斉取り締まりは、文政の改革に対する見せしめとして、汚職・不正行為に対する厳罰化、領民徒党への弾圧を示したものと言われている[3]。この騒動を受けてか、岩村藩は翌年に慶安御触書、六諭衍義大意の木版を配布して領民に勤労と封建道徳を説いている。

  1. ^ 元々の横領疑惑からも、年貢納入の管理を庄屋に丸投げしていたか、村の有力者との癒着があったのかもしれない。
  2. ^ 帯刀・苗字の剥奪などもある中で最も厳しい罰である事から金子間違いの方の咎で処せられたと思われる。
  3. ^ 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100

戯曲版「阿木騒動」

橋本代官は家老丹羽瀬による重税と度重なる凶作で困窮していた領民の生活を按じ、不足分を豊作の年に埋め合わせるようお目こぼしを行っていた。これが発覚し死罪となった、という戯曲話も存在している。これが本当であれば阿木村以外の担当村でも同様の逮捕者が出ているはずである。

四方山話

  • 慶安御触書については、岩村藩の木版以前の記録が見つからないことから、偽書との説もある。この説が正しいとすれば、不本意ながら、阿木で発生した事件が発端となり、全国に影響を及ぼし、現行の教科書の記載に影響をあたえたこととなる。

関連項目

参考文献

  • 文政の阿木騒動と代官橋本祐三郎 (樋田薫)

外部リンク

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