曹屋師之碑

提供:安岐郷誌
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曹屋師之碑(そうやしのひ)[MAP]は広岡の三十三観音に建てられている曹屋和尚の顕彰碑。曹屋和尚は江戸の終わりから明治の始めにかけて広岡で績翠庵を結び徳を説いた人物である。

碑文

師は羽前国 (山形県) 最上郡新庄村の松田某という男で諱を義俊、號を曹屋と言う。同地の瑞雲院を授かり度々諸方への行脚を行った後に土岐郡柿野の荘巌寺九世梅峰和尚の室を受け継いだ。弘化元年 (1844年/江戸後期) 同寺の十一世となり、慶応2年 (1866年/江戸後期) 鷹見治右衛門の斡旋でこの地に隠棲。村吏の三氏とと有志の援助で五間八間 (9×14.5m) の績翠庵という號の庵を建設した。当時の青年が本尊を寄附し師の徳を学び備門生は50人余り居た。明治16年 (1883年) 6月17日に72歳で入寂。明治39年 (1906年) 11月に失火で本尊並びに師木像などが墨となった。往年教えを受けた諸氏が師の徳を募り相謀りて碑を建て、後世の者に師の事蹟を伝えるものである。

曹屋師之碑

師諱義俊號曹屋羽前國最上郡新庄村松田某男也
授同地瑞雲院得度諸方行脚之後入土岐郡柿野莊
巌寺九世梅峰和尚之室嗣法弘化元年為同寺十一
世慶應二年依鷹見治右衛門氏斡旋穏栖此地以村
吏三氏及有志援助建設五間八間庵室號績翠庵當
時青年寄附本尊師學徳兼備門生有五十餘人明治
十六年六月十七日示寂壽七十二明治三十九年十
一月失火本尊並師木像等歸烏有焉徃年受教諸氏
慕師徳相謀建碑傳師事蹟於後世者也

昭和三年十月 莊嚴寺十三世音勇撰並書

資料撮影 2009/08 [1][2]

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