木地師

提供:安岐郷誌
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木地師(きじし)とは山に住み木工品の作成や狩猟を生業としていた人たちである。サンカとも呼ばれる (サンカという名前自体は明治の頃から使われ始めた)。

生活

昔は阿木の山々にも木地師が住んでいた。一所に定住することはあまりなく、季節によって移動したり、時に良い木材を求めて山々を転々と巡っていたと言われている。

竹籠や竹細工、木工ロクロを使用した椀や盆などを作って阿木の村に売りに来ることもあったという。現在でも阿木の山の中にはその痕跡が点在している[1]

阿木山奥の大平、表木などに昔の人が住んだ跡がたくさん残っている。今墓戸というところに墓もあるし、井戸もあり、石臼などもあり、屋敷跡もたくさんある。風穴 (風神神社) 上方、槙平のあたりにもあり、木地屋敷なども同様である。梨の木、梅の木、南天など今でもも残っているところを見ると昔の一つ種族の生活の様子を想像することが出来る。

彼らは決して野蛮な人たちではなく、里人の口伝えによると彼等は椀、桶、箸、組物 (ざるなどの竹細工) などを持って村に出てきて、米、塩、砂糖などと交換して山中へ帰っていったと言うことである。

歴史

サンカの始まりは定かでないが、中世戦国時代の兵火から逃れた里人がそのまま山に住み着いただとか、武家社会で領地を奪われた公家、戦で負けた一族、謀反や一揆を企てた一族などが追っ手を逃れて山に住み着いたのではないかなどとも言われている。

阿木山の木地師は岩村藩から許可をもらって山で木地を挽く作業に従事していた人たちである。藩からは領民として認知されており、墓戸峠の墓石に「信士」とあるように寺の檀家に入っていた (つまり流浪の民ではなかった)。

明治に入ると住処であった阿木の山々が御料林 (国有化) として取り上げられる事となったため、自分たちの生活の土地であることを主張するために峠に墓を建てた (墓戸峠)。しかし戸籍法や学制が整えられて、サンカは次第に麓の村々に吸収されていった。

現代に至っては消えて久しくサンカや木地師について詳しくは分かっていない。

  1. ^ 阿木史略 (阿木歴史教室テキスト), 鈴木順一, 2001, 阿木コミュニティセンター所蔵

関連項目

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