東山道

提供:安岐郷誌
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東山道(とうざんどう)は律令制下で京都を東国をつなぐ道路。恵奈郡には大井駅坂本駅が設置されていた。特に坂本駅と阿智駅の間には東山道最大の難所である神坂峠(みさかとうげ)が控えている。

太政官符によれば、夜明け前に出発しても到着は夜遅く、一駅ながら数駅分の苦労を要し、駅子の荷運びは過酷を極め、冬には道中に死者が大勢出たと記されている。通常の駅馬 10 匹に対して両駅とも東山道最多となる 30 匹を配備していた事からも神坂峠の険しさが窺える。

東山道.png

855年 (斉衡2年/平安) の太政官符では、恵那郡全体の課口 (課役負担の義務を負った男子) 296 人に対して坂本駅の駅子 215 人と書かれていることから、阿木を含めた周辺地域からかなり多くの駅子が徴集されていたのであろう。しかし前述のような労働状況の厳しさや、郡使があまり優秀でなかったこともあって、何度となく駅子の逃亡が発生して建物は廃れ、855 年以降は衰退して記録から坂本駅の名は見られなくなってしまっている。

坂本駅が廃れてからも東山道は主要路として使われ続けて阿木周辺地域へ東西の文化をもたらしている。特徴的なのは上野国(こうずけのくに) (群馬県) から伝わった塞之神であろう。神坂峠越えのルートも時が経つに連れ補助路として開かれた木曽路へ移り、江戸時代に入ると中山道として整備されて行くこととなった。

今でも阿木の周辺では、中山道と言えば木曽路を通り塩尻に出る経路 (国道19号沿い)、東山道と言えば神坂峠を抜けて飯田に出る経路 (中央道沿い) という具合に使い分けられている。

東山道の歴史は古く、恵奈郡周辺地域に関しては日本書紀 (720年/養老4年/奈良) で蝦夷討伐に出かけた日本武尊(やまとたけるのみこと)が帰路で科野(しなの)の坂 (神坂峠) で恵那山を拝し、道に迷って白い犬に導かれて難を逃れた事が書かれている。

日本武尊、(けぶり)()け、霧を凌ぎて、遙に大山(みたけ)(わた)りたまふ。
(略)
(ここ)(みこ)(たちまち)に道を(まど)ひて、出づる所を知らず。時に白き(いぬ)、自づからに(まうき)て、王を導きまつる(かたち)有り。狗に随ひて行でまして、美濃に出づることを得つ。

実際に該当する人物が実在して居たかも分からないが、神坂峠の頂上には古墳時代初期〜平安時代末期までの石製模造品や土師器などの出土する祭祀跡がある事からも古代から神坂峠越えが行われていた事が分かる。

四方山話

  • 他にも、古事記で白鳥を追って越後へ向かう山辺大鶙(やまべのおほたか)や、風土記 (713年/和銅6年) で美濃国引津根(ひきつね)の丘から常陸国に移り住んだ綺日女命(かむはたひめのみこと)などが通ったかも知れない。

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