梨沢の橋

提供:安岐郷誌
(版間での差分)
移動: 案内, 検索
 
1行: 1行:
 
[[File:bridge in nashizawa01.jpg|thumb|梨沢の橋]]
 
[[File:bridge in nashizawa01.jpg|thumb|梨沢の橋]]
'''梨沢の橋'''<map name="梨沢の橋" lat="35.403974" lon="137.494361"/>は[[四重洞川]]の最上流に架けられている無名橋。
+
'''梨沢の橋'''<map name="梨沢の橋" lat="35.403974" lon="137.494361"/>は[[梨沢]] {{note|(四重洞川)}} の最上流に架けられている無名橋。
  
古くは恵南地方、阿木、長楽寺、龍泉寺、恵那神社、恵那山をつなぐ[[龍泉寺古道]]として使用されていた。また左岸の駕台、右岸の清水という地名もここに{{ruby|駕籠立場|かごたてば}} {{note|(駕籠を下ろして一行が休むための見晴らしの良い休憩所)}} があり{{ruby|御駕籠台|おかごだい}}や水場があったことに由来すると思われる。下広岡の[[馬籠橋]]から[[共同墓地|共同墓地 (広岡)]]まで山道を登りこの橋を渡って右折し[[越沢口]]へ向かう道が龍泉寺古道にあたる。
+
古くは恵南地方、阿木、長楽寺、龍泉寺、恵那神社、恵那山をつなぐ[[龍泉寺古道]]として使用されていた。下広岡の[[馬籠橋]]から[[共同墓地 (広岡)|共同墓地]]まで山道を登り、この橋を渡って右折し[[越沢口]]へ向かう道が龍泉寺古道にあたる。
 +
 
 +
橋の右岸側にある家は新田開拓のため江戸時代初期に[[青野]]から移り住んだ[[広岡鷹見家]] 2 軒のうちの 1 軒である (もう 1 軒は[[越沢口]]右岸の家; 昔の土地の有力者は灌漑のため沢口を押さえていた)。この家は{{ruby|駕籠台|かごだい}}という屋号であり、この家の領地だった土地は{{ruby|駕台|かごだ}}という小字で呼ばれている ([[小字 (阿木)|阿木の小字]]参照)。この名前はこの家に{{ruby|駕籠立場|かごたてば}} {{note|(駕籠を下ろして一行が休むための見晴らしの良い休憩所)}} があり{{ruby|御駕籠台|おかごだい}}や水場があったことに由来している。
  
 
[[9.28水害]]の時には四重洞川上流で発生した土砂崩れによる流木がこの橋で堰止を作り、この橋の左右の田んぼに大量の土砂が流れ込んだ。ただし橋自体は無事で流木を撤去した後も曲がった欄干のまま利用されていた。現在欄干は撤去されガードレールが設置されているが橋桁はその時のままである。
 
[[9.28水害]]の時には四重洞川上流で発生した土砂崩れによる流木がこの橋で堰止を作り、この橋の左右の田んぼに大量の土砂が流れ込んだ。ただし橋自体は無事で流木を撤去した後も曲がった欄干のまま利用されていた。現在欄干は撤去されガードレールが設置されているが橋桁はその時のままである。

2013年1月6日 (日) 15:33時点における最新版

梨沢の橋[MAP]梨沢 (四重洞川) の最上流に架けられている無名橋。

古くは恵南地方、阿木、長楽寺、龍泉寺、恵那神社、恵那山をつなぐ龍泉寺古道として使用されていた。下広岡の馬籠橋から共同墓地まで山道を登り、この橋を渡って右折し越沢口へ向かう道が龍泉寺古道にあたる。

橋の右岸側にある家は新田開拓のため江戸時代初期に青野から移り住んだ広岡鷹見家 2 軒のうちの 1 軒である (もう 1 軒は越沢口右岸の家; 昔の土地の有力者は灌漑のため沢口を押さえていた)。この家は駕籠台(かごだい)という屋号であり、この家の領地だった土地は駕台(かごだ)という小字で呼ばれている (阿木の小字参照)。この名前はこの家に駕籠立場(かごたてば) (駕籠を下ろして一行が休むための見晴らしの良い休憩所) があり御駕籠台(おかごだい)や水場があったことに由来している。

9.28水害の時には四重洞川上流で発生した土砂崩れによる流木がこの橋で堰止を作り、この橋の左右の田んぼに大量の土砂が流れ込んだ。ただし橋自体は無事で流木を撤去した後も曲がった欄干のまま利用されていた。現在欄干は撤去されガードレールが設置されているが橋桁はその時のままである。


[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
Sponsored Link
ツールボックス
Sponsored Link