槙平一件覚帳

提供:安岐郷誌
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文政元年 (1818年/江戸後期)、阿木村小皿田 (野内) の与三右衛門が運上金百両と御山を頂き切り開いて新田としたいという希望を申し上げた。

この頃には赤滝という場所に金掘山 (?) があったことから、郡奉行の小林太郎兵衛様、力丸貫一郎様、御代官の石橋三郎兵衛様、御手代様、御下目付様が御見分にお越しなっており、その帰りに槙平あたりの山々を見分なさる度に思い召しておられた。そして村役人連中が姫子谷までお出かけになった折にそのような事をお聞きになられた事から、庄屋の兼三郎、組頭の次郎右衛門、小皿田の与三右衛門の願い出となった。

運上差上御山は却下されたが新田開発は聞き入れられた。得者は金子五十両を下さり開発の差し障りになりそうな場所は御山をお渡しなさった。間依りの新田開発を致すべき旨仰ぎ聞いていた役人どもは一向に心当たりがなかった。

御座旦は与馴山義にも候。これより風神〜川上へ婦人が入り込む事になる。得者は風雨に頻繁に遭い、特に槙平辺りでは笹などが冬春に一日に百背負い、二百背負い程も苅られ村方の牛馬が食べた。今から代払い、後々新田になるとなれば村方も差し支えにもなるべく申すよう申し上げたところ、風神〜川上へ婦人が入り込み候。

阿木村ばかり差し障りになると申す事もなし、

笹なども他村などには無くても牛馬が食べる通りであるかな。

神は外へ祭り替えを申す事もあり笹など常々心当たりに致す候かな。 もちろん槙平辺りの新田に切り開くのは自然の水通り潤流のようにも

小皿田の与三右衛門、福岡新田の庄蔵両人を世話人とし、雑木を伐り紺屋 (染物屋) へ灰焼用に渡し、山の中の(ひのき)(さわら)も五年間に限って伐り取り、金二十両を求めて合わせて両世話人へ渡し、それぞれ追々諸木を伐り払うための開発人に先の久保原村の周助、木地師の文左衛門、五郎右衛門、菊右衛門、利右衛門、久佐衛門、弥佐右衛門、藤兵衛、源兵衛と申す者が差し入り

もっとも鎌、くわ、鍋釜など諸家の財産を渡し、その他に家一軒の家族共へ〓

代銀三分を求め、それぞれ追々掘能が相成り候に随い、或いは二分の場合もあり或いは一分五厘の場合もあり場合によって代は相定め起き申し候。

文政元戌寅年三月
阿木村庄屋 兼三郎

文政元戌寅年阿木村小皿田与三右衛門槙平
辺之内御運上金百両差上御山頂載仕
切跡御新田ニ仕度旨御内意申上候哉其節
赤瀧ト申所ニ御金掘山御座候為御見分
郡奉行小林太郎兵衛様力丸貫一郎様
御代官石橋三郎兵衛様御手代様御下目付様
御越被成御帰リニ槙平辺御山御見分
被成度思召ニ而村役人共姫子谷迠罷出
可申様被仰聞候ニ付庄屋兼三郎組頭
次郎右衛門小皿田与三右衛門願候通
御運上差上御山ハ不被下置候尤御新田開発
申聞候得者金子五拾両御下ヶ被成
開発之差障リニ可相成場所ハ御山
御渡被戉候間依之御新田畑開発
致ス可キ旨被仰聞役人共一向心当リ無
御座旦ハ与馴山義ニ茂候之
依リニ茂風神〜川上江婦人入込候得者
風雨繁多哉殊ニ槙平辺ニ而笹
抔冬春ニハ一日ニ百負弐百負程モ
苅村方牛馬喰候間今〜代拂
跡々御新田ニ相成候ヘバ村方差支
ニ茂相成可申様申上候處風神〜
川上江婦人入込候而阿木村計リ差障リ
相成候可申事茂無し御座哉笹抔茂
他村等ニハ無御座候テ茂牛馬喰う通リ
候哉神ハ外江祭リ替与申事モアリ
笹抔常々心当ニ致候哉勿論槙平
辺新田ニ切開候ハハ自然与水通リ
潤流候様ニ茂相成可申哉致世話候而ハ
如何哉委入割被仰聞奉恐入右之
段村方江申談為村願御願申上
願之通被仰付御請申上小皿田
与三右衛門福岡新田庄蔵両人ニ而致
世話雑木伐取紺屋灰焼御渡
山之内檜椹五ヶ年限リ伐取ニ而金高
弐拾両ト相究メ合両世話人江相渡夫〜
追々諸木伐拂為開発人ト先久保
原村周助木地師文左衛門五郎右衛門
菊右衛門利右衛門久佐衛門弥左衛門藤兵衛
源兵衛申者差入開発為致内喰ニ
者木地為仕出尤鎌鍬鍋釜諸家
財相渡其外ニ家壱軒之家俗共江

代銀三分ト相究為起夫々追々掘能ヶ
相成候ニ随イ或ハ弐分之場合モアリ或ハ
壱分五里ノ場所モアリ場所に依リテ
代相定為起申候

書きかけのページ このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。

阿木公民館冊子「あぎ」昭和58年度版に掲載されている「槙平一件覚帳」より。


古文書の翻訳: このページは槙平一件覚帳を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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