神坂峠
提供:安岐郷誌
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{{ruby|'''[[w:神坂峠|神坂峠]]'''|みさかとうげ}}<map name="神坂峠" lat="35.471909" lon="137.632"/>は中津川市と長野県下伊那郡阿智村の県境に位置する標高 1,569m の峠。神の御坂、{{ruby|科野坂|しなののさか}}、信濃坂などと書かれる事もある。古代[[東山道]]最大の難所である。 | {{ruby|'''[[w:神坂峠|神坂峠]]'''|みさかとうげ}}<map name="神坂峠" lat="35.471909" lon="137.632"/>は中津川市と長野県下伊那郡阿智村の県境に位置する標高 1,569m の峠。神の御坂、{{ruby|科野坂|しなののさか}}、信濃坂などと書かれる事もある。古代[[東山道]]最大の難所である。 | ||
− | 現在は湯舟沢から神坂峠の頂上まで舗装路が整備されており普通車での走行が可能である | + | 現在は湯舟沢から神坂峠の頂上まで舗装路が整備されており普通車での走行が可能である<ref>2009/6 ただし地元警察の話では阿智村までへは抜けられないという。</ref>。頂上の{{ruby|追分|おいわけ}}には[[恵那山]]への登山口と祭祀遺跡がある。また中央自動車道恵那山トンネルが神坂峠の真下を通っている。 |
== 古代 == | == 古代 == | ||
− | {{年号|755}}、防人に立った信濃国埴科郡神人部子忍男が「ちはやぶる 神の御坂に幣奉り 斎ふ命は母父のため」と旅の無事を祈った歌が「万葉集」(巻20) に納められている。 | + | 峠頂上の祭祀遺跡からは古墳時代から平安時代の土器や陶器が多く出土している。 |
+ | ;土師器 | ||
+ | :古墳〜平安時代だが小破片で自然摩耗も大きく原型・時代判別不能なものが多い。大きな物では古墳時代の高坏の脚部や平安時代の内黒杯などが出土。 | ||
+ | ;須恵器 | ||
+ | :古墳〜平安時代だが土師器と同様に原型・年代判別不明な物が多い。坏、蓋、高坏、{{ruby|𤭯|はそう}}、{{ruby|長頸瓶|ちょうけいへい}}、鉄鉢型の鉢など。 | ||
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+ | [[w:古事記|古事記]] {{note|(712年/奈良)}} において{{ruby|日本武尊|やまとたけるのみこと}}の東方遠征で「科野の坂の神を言向けて尾張国に還り来て」とは東山道の神坂峠と言われている。また {{年号|755/奈良}}、防人に立った信濃国埴科郡神人部子忍男が「ちはやぶる 神の御坂に幣奉り 斎ふ命は母父のため」と旅の無事を祈った歌が「万葉集」(巻20) に納められている。 | ||
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神坂峠は古代[[東山道]]最大の難所である。[[坂本駅 (東山道)|坂本駅]]-阿智駅の間にあり、峠越えの大変さは斉衡2年 {{note|(855年)}} 正月28日の太政官符 (類聚三代格) に記されている。 | 神坂峠は古代[[東山道]]最大の難所である。[[坂本駅 (東山道)|坂本駅]]-阿智駅の間にあり、峠越えの大変さは斉衡2年 {{note|(855年)}} 正月28日の太政官符 (類聚三代格) に記されている。 | ||
2009年8月12日 (水) 03:59時点における版
現在は湯舟沢から神坂峠の頂上まで舗装路が整備されており普通車での走行が可能である[1]。頂上の
目次 |
古代
峠頂上の祭祀遺跡からは古墳時代から平安時代の土器や陶器が多く出土している。
- 土師器
- 古墳〜平安時代だが小破片で自然摩耗も大きく原型・時代判別不能なものが多い。大きな物では古墳時代の高坏の脚部や平安時代の内黒杯などが出土。
- 須恵器
- 古墳〜平安時代だが土師器と同様に原型・年代判別不明な物が多い。坏、蓋、高坏、
𤭯 、長頸瓶 、鉄鉢型の鉢など。
古事記 (712年/奈良) において
神坂峠は古代東山道最大の難所である。坂本駅-阿智駅の間にあり、峠越えの大変さは斉衡2年 (855年) 正月28日の太政官符 (類聚三代格) に記されている。
恵奈郡坂本駅与信濃国阿智駅相去七十四里雲山畳重路遠坂高載星早発犯夜遅刻一駅之程猶倍数駅駅子負荷常困運送寒節之中道死者衆
74里 (約40km) の道はつづら折りの険しい坂で、朝早く出ても到着は夜遅く、数駅分の労を要し、駅子の負担は過重、冬には道中に死者が出ていた。この事は大井駅、坂本駅、阿智駅に配備された駅馬の頭数や、駅子の課役の特別免除、また駅子の逃亡などからも見て取れる。