絵上郷

提供:安岐郷誌
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絵上郷(えのかみごう)は平安時代中期に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)に記されている美濃国恵奈郡六郷の一つ。神坂から南木曾にかけての木曽諸地区に渡ると見られている。

恵奈郡は信濃国筑摩郡と境界を接していたことから古くから境界争いが絶えなかった。713年 (和銅6年/奈良) に美濃守笠朝臣麻呂により東山道の補助路として吉蘇路が開かれた。また日本三代実録 879年 (元慶3年/平安) 9月4日条では、朝廷は吉蘇路が美濃国によって整備されたことを根拠に貞観年間 (859-877年/平安) に藤原朝臣正範と靭負直継雄などを遣わして両国国司立ち会いの元で国境を「県坂上岑(あがたさかうえのみね)」と定め、吉蘇・小吉蘇の両村を恵奈郡絵上郷の地と裁断したとしている[1]

なお県坂とは鳥居峠[MAP]の古い名であり、県坂上岑は現在の長野県木曽郡と塩尻市の境にある鉢盛山[MAP]系とする説がある[1]

木曽は 1701年 (元禄14年/江戸初期) 頃まで恵奈郡に属していた。

  1. ^ 1.0 1.1 日本歴史地名大系, 平凡社地方資料センター, 1993年, 平凡社, ISBN 978-4040012100

文献

惠那神社誌より。原文は「第四章 繪上郷」参照。

第四章 繪上郷

〔大日本史〕絵上は古くは吉蘇と小吉蘇の二村であった。現在の荻曽村 (今は木祖村に合併) は信濃国筑摩郡に属している。大宝年間に岐蘇山道が開かれ、和銅年間に勅命でこれを修めたと云々。

〔日本地理志料〕絵上、按ずるに立入氏によれば、絵上は恵那の上を修めるなり。読んでエナノカミと言う。絵下もこれに準ずる。

昔は此の地方全体を恵那の郷と称していたが、次第に淡気、安岐、竹折、坂本の各郷に分裂していった。その本土である恵那の郷もまた上と下に別れた。これらが別れた年代は不明であるが、東大寺所蔵文書に 750年 (天平勝宝2年/奈良) 美濃国恵那郡絵下郷、また三代実録に 879年 (元慶3年/平安) 美濃国恵那郡絵上郷とあることからこれらの時代には別れていたものと考えられる。また日本地理志料でも「分為二郷亦久 (二郷に別れて久しい)」と書かれている。

絵上郷の地域は現在の信濃国西筑摩郡であろう。元々この地は極めて信濃に近い土地であるため、貞観年間 (859-877年/平安 に信濃と美濃の両国司が領有を争い、旧記によると人皇五十七代陽成天皇の 879年 (元慶3年/平安) 9月4日、この訴えを裁定し美濃国恵那郡所属と定めた。

三代実録〕元慶3年 (879年/平安) 9月、美濃国・信濃国に縣坂上岑をもって国境とすると令した。縣坂上岑とは美濃国恵奈郡・信濃国筑摩郡の間にあり両国は昔から境界を争っていまだ決着が付いていなかった。貞観年間に勅命で左馬権小允從六位上藤原朝臣正範、刑部小録從七位上勤負直継雄らが遣わされ両国に与える地を相定めた。正範らの旧記を調べると吉蘇・小吉蘇の両村は恵奈郡絵上郷の地であるとした。和銅6年 (713年/奈良) 7月、美濃と信濃の両国の境は道が険しく往来が甚だ困難であったため岐蘇路を通した。同7年閏2月に吉蘇路を通した功績で美濃守從四位下笠朝臣麻呂が門戸72田6町 (約5.9ヘクタール) の村に封じられ。小椽正七位下門部連立、大目從八位上山口忌寸兄人それぞれの階位が上げられた。今この地は美濃の国府を去ること10日余り、信濃国の方が近いはずであるが、もし信濃の地であるなら何故より遠い美濃の国司に令しこの道を通じさせたのか。これを理由として正範はこう定めたのである。

この吉蘇・小吉蘇両村とあることから木曽川より南を吉蘇村、北を小吉蘇村と称した。今も川北に小木曽村という場所が残っている。しかし大吉蘇山が恵那山であることは前述恵那山の部に述べたとおり。また加子母村付知町川上村の三町村を裏木曽といい、読書村大桑村のあたりを中木曽という。里人はこの地の山を「ナキビソガタケ」と呼ぶ。俗謡に

 (ふもと)には、妻子(つまこ) (妻籠) (まご)め (馬籠) を持乍(もちなが)ら、何が悲して、泣毘曾ヶ嶽(なきびそがたけ) (中木曾ヶ嶽)

この時に定められた縣坂上岑とは今の鳥居峠のことである。これより鉢盛山へかけて峰続きに飛騨の境へ連なっている。現在の木祖村のうち小木曽村に境峠という地名も残っている。故に西筑摩郡が全て恵那の地であったことは疑いようがない。縣坂上峰はこの時に恵奈郡の北境だったことから、大氏神である恵那神社の鳥居を建立し弊帛を手向けて遙拝した齋庭であったことから鳥居手向という地名になった。このためこの地も上古は恵那神社の氏子であったことが分かる。

このように西筑摩郡の一円は元は恵那郡であったことは明かである。しかし信濃国に属した年代はいつ頃なのか分かってない。源平盛衰記、平家物語などには信濃国安曇郡の木曾、甲陽軍鑑には武田信玄公御持の木曾郡という記述が見られる。

〔大日本地名辞書〕國郡沿革考によれば木曽の地は美濃を離れて信濃に編入されたが中世頃の郡名は一定していない。吉蘇古道記によれば天正以降 (1573年/戦国) 以降の記録に木曽二郡という呼び名が見られる。木曽川の東を筑摩郡、西を恵奈郡と分け二郡と呼んだものである。木曽氏がここに居た頃から木曽庄をもって木曽郡あるいは筑摩郡、恵奈郡などを濫称したのだろうか。正保の図によれば木曽郡となり、寛文年間の郡名復旧の時に定めて筑摩郡に入った云々。奇区一覧の、木曽川より西に松本領、奈川より苗木領、田立村までは承応の頃まで美濃国恵奈郡木曽庄と称した。万治の頃より信濃国恵那郡と書いていたが、後は残らず筑摩郡と定まった。

〔御坂越記〕〓

これらを見ても木曽川東南の読書村あたりまでを最初とし、次に木曽川西北部、次に読書村以西の村落と、順次筑摩郡に編入し、明治13年に至っては西筑摩郡となったのである。

関連項目

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