蠶靈

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日本の{{ruby|養蚕|ようさん}}は弥生時代に中国から伝来した。しかし本格的に行われるようになったのは幕末近くの江戸時代後期からである。日本の生糸は非常に評判が高く、島崎藤村の「夜明け前」でも外国の商船に高値で売れている様子が描かれている。しかし雹で桑の葉が全滅したり病気が流行ったりと農作と同様に天候に大きく左右されることから、養蚕の隆盛と共に全国で蚕神が祀られるようになった。
 
日本の{{ruby|養蚕|ようさん}}は弥生時代に中国から伝来した。しかし本格的に行われるようになったのは幕末近くの江戸時代後期からである。日本の生糸は非常に評判が高く、島崎藤村の「夜明け前」でも外国の商船に高値で売れている様子が描かれている。しかし雹で桑の葉が全滅したり病気が流行ったりと農作と同様に天候に大きく左右されることから、養蚕の隆盛と共に全国で蚕神が祀られるようになった。
  
岩村藩内では江戸時代の後期に地場産業の発展をめざして周辺地域に養蚕を推奨している ([[文政の岩村改革]])。養蚕は農家にとっても貴重な現金収入源であったため阿木や飯沼でも広まっていった。この石碑は豊蚕の祈願と蚕の供養のため祀られたものであろう。
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岩村藩内では江戸時代の後期に地場産業の発展をめざして周辺地域に養蚕を推奨している ([[文政の改革]])。養蚕は農家にとっても貴重な現金収入源であったため阿木や飯沼でも広まっていった。この石碑は豊蚕の祈願と蚕の供養のため祀られたものであろう。
  
 
しかし日本の輸出産業の花形であった生糸の価格も第一次大戦後の大正初期の不況を機に暴落。阿木や飯沼では昭和30年代までよく見られた養蚕も次第に衰退し、平成に入る頃にはほとんど見られなくなった{{要調査}}。
 
しかし日本の輸出産業の花形であった生糸の価格も第一次大戦後の大正初期の不況を機に暴落。阿木や飯沼では昭和30年代までよく見られた養蚕も次第に衰退し、平成に入る頃にはほとんど見られなくなった{{要調査}}。
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== 参照 ==
 
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2009年6月6日 (土) 08:49時点における版

蠶靈の石碑

飯沼宮ノ根子安寺左に蠶靈(こだま)と彫られた石碑が建てられてる。蠶靈 (蚕霊) とは蚕の神様。蚕神、蚕影、蚕玉、絹笠(衣笠) などと同じく豊蚕祈願の対象である。

日本の養蚕(ようさん)は弥生時代に中国から伝来した。しかし本格的に行われるようになったのは幕末近くの江戸時代後期からである。日本の生糸は非常に評判が高く、島崎藤村の「夜明け前」でも外国の商船に高値で売れている様子が描かれている。しかし雹で桑の葉が全滅したり病気が流行ったりと農作と同様に天候に大きく左右されることから、養蚕の隆盛と共に全国で蚕神が祀られるようになった。

岩村藩内では江戸時代の後期に地場産業の発展をめざして周辺地域に養蚕を推奨している (文政の改革)。養蚕は農家にとっても貴重な現金収入源であったため阿木や飯沼でも広まっていった。この石碑は豊蚕の祈願と蚕の供養のため祀られたものであろう。

しかし日本の輸出産業の花形であった生糸の価格も第一次大戦後の大正初期の不況を機に暴落。阿木や飯沼では昭和30年代までよく見られた養蚕も次第に衰退し、平成に入る頃にはほとんど見られなくなった[要調査]

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