遠山荘
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{{年号|1155}} 12月16日、[[w:藤原泰子|藤原泰子]]の死去によって遠山荘は{{ruby|高陽院領|かやいんりょう}}から[[w:近衛家|近衛家]]に移った (近衛家文書)。 | {{年号|1155}} 12月16日、[[w:藤原泰子|藤原泰子]]の死去によって遠山荘は{{ruby|高陽院領|かやいんりょう}}から[[w:近衛家|近衛家]]に移った (近衛家文書)。 | ||
− | 吾妻鏡 {{年号|1185}} [http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma04-05.htm 5月1日条]で、木曽義仲の妹で北条政子の猶子になっていた[http://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E8%8F%8A <strong>宮菊</strong>] | + | 吾妻鏡 {{年号|1185}} [http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma04-05.htm 5月1日条]で、木曽義仲の妹で北条政子の猶子になっていた[http://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E8%8F%8A <strong>宮菊</strong>]という女性が、都で問題を引き起こしたにも関わらず、源頼朝は彼女を哀れんで鎌倉へ呼び寄せた上、美濃国遠山荘内の一村を与えたという (馬籠が有力)。同年 [http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma04-03.htm 3月3日条]には、宮菊がそれまで美濃国に居たこと、その理由が「一村有御志」というものであった事を伝えている。 |
− | 文治から建久 {{note|(1185-1199年)}} に、源頼朝は伊豆国討伐の功として{{ruby|[[w:加藤景廉|加藤景廉]]|かとうかげかど}}に遠山荘の地頭職を与えた<ref>景廉より前に居た地頭が誰であるかは分かっていない。</ref>。しかし景廉自身は頼朝に付いて鎌倉におり遠山荘の地を踏むことはなかった。景廉の死後に地頭を継いだ{{ruby|景朝|かげとも}}が遠山荘に入り、姓も遠山と替えてこの地に土着した。 | + | 文治から建久 {{note|(1185-1199年/鎌倉)}} に、源頼朝は伊豆国討伐の功として{{ruby|[[w:加藤景廉|加藤景廉]]|かとうかげかど}}に遠山荘の地頭職を与えた<ref>景廉より前に居た地頭が誰であるかは分かっていない。</ref>。しかし景廉自身は頼朝に付いて鎌倉におり遠山荘の地を踏むことはなかった。景廉の死後に地頭を継いだ{{ruby|景朝|かげとも}}が遠山荘に入り、姓も遠山と替えてこの地に土着した。 |
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2009年6月12日 (金) 17:05時点における版
美濃国
沿革
1155年 (久寿2年/平安) 12月16日、藤原泰子の死去によって遠山荘は
吾妻鏡 1185年 (文治元年/鎌倉) 5月1日条で、木曽義仲の妹で北条政子の猶子になっていた宮菊という女性が、都で問題を引き起こしたにも関わらず、源頼朝は彼女を哀れんで鎌倉へ呼び寄せた上、美濃国遠山荘内の一村を与えたという (馬籠が有力)。同年 3月3日条には、宮菊がそれまで美濃国に居たこと、その理由が「一村有御志」というものであった事を伝えている。
文治から建久 (1185-1199年/鎌倉) に、源頼朝は伊豆国討伐の功として
1246年 (寛元4年/鎌倉) 8月25日、遠山荘は
ただしこの頃の実質的な支配権は地頭である遠山氏が握っており、遠山荘は
近世に入ると豊臣秀吉の太閤検地によって領地の多重所有が解消して遠山荘も消滅した。阿木を含める遠山荘のほとんどはそのまま岩村藩となり遠山氏が支配するところとなった。
- ^ 景廉より前に居た地頭が誰であるかは分かっていない。
- ^ 武蔵局に与えた荘園という話は飯妻の名の発祥と似ている。飯妻の逸話は元は遠山氏ではなく近衛氏だったのかもしれない。
- ^ 3.0 3.1 日本歴史地名大系 第二一巻 岐阜の地名, 所三男, 1993年(平成5年), 平凡社, ISBN 978-4582490213