遠山荘
提供:安岐郷誌
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{{年号|1180}} 8月、源頼朝は伊豆国討伐の功として{{ruby|[[w:加藤景廉|加藤景廉]]|かとうかげかど}}に遠山荘の地頭役を与えた。しかし景廉自身は鎌倉におり遠山荘の地を踏むことはなかったと言われている。景廉の死後、遠山荘を継いだ{{ruby|景朝|かげとも}}は荘に入り、姓も遠山と替えて'''岩村城'''を築城した。 | {{年号|1180}} 8月、源頼朝は伊豆国討伐の功として{{ruby|[[w:加藤景廉|加藤景廉]]|かとうかげかど}}に遠山荘の地頭役を与えた。しかし景廉自身は鎌倉におり遠山荘の地を踏むことはなかったと言われている。景廉の死後、遠山荘を継いだ{{ruby|景朝|かげとも}}は荘に入り、姓も遠山と替えて'''岩村城'''を築城した。 | ||
− | {{年号|1246}} 8月25日、遠山荘は{{ruby|[[w:近衛基通|近衛基通]]|このえもとみち}}から子{{ruby|[[w:道径|道径]]|みちつね}}の妻 {{note|(妾?)}} である {{ruby|武蔵局|むさしのつぼね}} | + | {{年号|1246}} 8月25日、遠山荘は{{ruby|[[w:近衛基通|近衛基通]]|このえもとみち}}から子{{ruby|[[w:道径|道径]]|みちつね}}の妻 {{note|(妾?)}} である {{ruby|武蔵局|むさしのつぼね}}に与えられている<ref>武蔵局に与えた荘園という話は[[飯沼|飯妻]]の名の発祥と似ている。飯妻の逸話は元は遠山氏ではなく近衛氏だったのかもしれない。</ref>。また同年10月8日には基通の娘の竜前のものとしている<ref name="日本歴史地名大系"><strong>日本歴史地名大系 第二一巻 岐阜の地名</strong>, <i>所三男</i>, 1993年(平成5年), 平凡社, ISBN 978-4582490213</ref>。ただしこの頃は既に実質的な支配権を地頭である[[遠山氏]]が握っており、遠山荘は{{ruby|[[w:地頭請|地頭請]]|じとううけ}}となっていたようである。 |
− | + | 近世に入ると豊臣秀吉の太閤検地によって領地の多重所有が解消して遠山荘も消滅した。阿木を含める遠山荘のほとんどはそのまま岩村藩となり[[遠山氏|遠山氏族]]が支配するところとなった。 | |
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2009年6月6日 (土) 03:53時点における版
美濃国
近衛家文書によれば 1155年 (久寿2年/平安) 12月16日藤原泰子の死去によって遠山荘は
1180年 (治承4年/平安) 8月、源頼朝は伊豆国討伐の功として
1246年 (寛元4年/鎌倉) 8月25日、遠山荘は
近世に入ると豊臣秀吉の太閤検地によって領地の多重所有が解消して遠山荘も消滅した。阿木を含める遠山荘のほとんどはそのまま岩村藩となり遠山氏族が支配するところとなった。
- ^ 武蔵局に与えた荘園という話は飯妻の名の発祥と似ている。飯妻の逸話は元は遠山氏ではなく近衛氏だったのかもしれない。
- ^ 日本歴史地名大系 第二一巻 岐阜の地名, 所三男, 1993年(平成5年), 平凡社, ISBN 978-4582490213