遠山荘
提供:安岐郷誌
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'''美濃国'''{{ruby|'''遠山荘'''|とおやまのしょう}}は中世の[[w:荘園制|荘園制]]における[[w:摂関家|摂関家]]領の一つ。現在の中津川市・恵那市の全域と瑞浪、土岐、木曽の一部が該当する。平安時代の[[安岐郷]]も遠山荘に属している。 | '''美濃国'''{{ruby|'''遠山荘'''|とおやまのしょう}}は中世の[[w:荘園制|荘園制]]における[[w:摂関家|摂関家]]領の一つ。現在の中津川市・恵那市の全域と瑞浪、土岐、木曽の一部が該当する。平安時代の[[安岐郷]]も遠山荘に属している。 | ||
− | + | == 沿革 == | |
+ | {{年号|1155}} 12月16日、[[w:藤原泰子|藤原泰子]]の死去によって遠山荘は{{ruby|高陽院領|かやいんりょう}}から[[w:近衛家|近衛家]]に移っている (近衛家文書)。 | ||
− | {{年号|1180}} 8月、源頼朝は伊豆国討伐の功として{{ruby|[[w:加藤景廉|加藤景廉]]|かとうかげかど}} | + | {{年号|1180}} 8月、源頼朝は伊豆国討伐の功として{{ruby|[[w:加藤景廉|加藤景廉]]|かとうかげかど}}に遠山荘の地頭職を与えた<ref>景廉より前に居た地頭が誰であるかは分かっていない。</ref>。しかし景廉自身は頼朝に付いて鎌倉におり遠山荘の地を踏むことはなかったと言われている。 |
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+ | 景廉の死後、地頭を継いだ{{ruby|景朝|かげとも}}は遠山荘に入り、姓も遠山と替えてこの地に土着した。 | ||
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2009年6月7日 (日) 00:53時点における版
美濃国
沿革
1155年 (久寿2年/平安) 12月16日、藤原泰子の死去によって遠山荘は
1180年 (治承4年/平安) 8月、源頼朝は伊豆国討伐の功として
景廉の死後、地頭を継いだ
1246年 (寛元4年/鎌倉) 8月25日、遠山荘は
近世に入ると豊臣秀吉の太閤検地によって領地の多重所有が解消して遠山荘も消滅した。阿木を含める遠山荘のほとんどはそのまま岩村藩となり遠山氏族が支配するところとなった。
- ^ 景廉より前に居た地頭が誰であるかは分かっていない。
- ^ 武蔵局に与えた荘園という話は飯妻の名の発祥と似ている。飯妻の逸話は元は遠山氏ではなく近衛氏だったのかもしれない。
- ^ 日本歴史地名大系 第二一巻 岐阜の地名, 所三男, 1993年(平成5年), 平凡社, ISBN 978-4582490213