阿寺城

提供:安岐郷誌
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阿寺城(あでらじょう)[MAP] (明照城、阿照羅城、斧戸(よきど)城) は手賀野の保古山中腹に位置する中世の城砦跡。遠山十八支城に数えられている。

目次

文献

阿寺城の文献については惠那神社誌で詳しく引用されている。

阿寺城址  は字斧戸にあり、諏訪神社より東の方なり、昔時岩村城主加藤景廉の築く處なりと云ふ、其麓なる手賀野に加藤屋敷と云ふ地名殘れり、天正二年二月武田勝頼大擧して伊奈路より上村へ入り、串原、明智、飯羽の諸城を抜く、其の敵の一隊木曾義昌を將として、木曾口より浸入し、馬籠、中津川、の二城を抜きて來り攻む、然れども城兵能く守り、終に敵を木曾に走らしむ、其の後當城主苗木城に移り、夫より廢城となりたりと云ふ、口碑に木曾義昌攻寄せたれど、城兵堅く守り、數日を經て落城せざるを以て、水責めにせんとて、夜中杣人に命じ、斧を以て用水路の樋を切り落さしめたり、故に此の地を斧戸と云るなりと、此の時城中にては、樓上より谷間へ米を瀧の如くに落し見せけるにぞ、敵は是を見て、城内尚ほ別に用水あるを疑ひ、逡巡せる折柄、城兵死を決して突出し力戰して遂に撃退せりといふ。

阿寺城趾諏訪神社東の字斧戸(よきど)にある。昔に岩村城主加藤景廉が築いた城と云われており、この麓の手賀野に加藤屋敷という地名も残っている。1574年 (天正2年/安土桃山) 2月に武田勝頼の軍勢が伊那路から上村 (上矢作) に入り、串原・明知・飯羽間の諸城を攻め落とした。この敵軍の木曾義昌を将とした一隊が木曽口より侵入し馬籠・中津川の二城を攻め落としたが、城兵がうまく守り最後には敵を木曽に敗走させた。この後、城主は苗木城に移りここは廃城になったと伝わる。

言い伝えでは、木曾義昌が攻め込んできたが、城兵の守りが堅く数日かかっても攻め落とすことが出来なかったため、水責めにしようと杣人 (きこり) に命じて夜中に城へ繋がる用水路を斧で切り落とした。この事からこの地を斧戸と呼ぶようになったとも云われている。この時に櫓の上から谷間へ米を瀧のように落として見せたと。敵はこれを見て城内には別に用水路があると思い、逡巡しているところを城兵が決死で攻め込んで遂に撃退したという。

【甲陽軍鑑】
天正二年四月云々、いひはさま右衛門を本城の藏へ押込生捕て進上候間勝頼公御機嫌淺からず候
信長はいまみ(今見)あてら(阿寺)いいはさま(飯峡)城をあけち(明智)とつけのくし原(串原)
とうたひけるは甲州信濃の下劣の詞にて、あさなる事をばあてらき事かなと申候故、しかもいまみ、あてらと云城落ける故なり云々。

甲陽軍鑑 ─ 1574年 (天正2年/安土桃山) 4月云々、飯羽間右衛門を本城の蔵に押し込み生け捕って進上した。勝頼公は機嫌が良かった。

【濃陽志略】
阿寺城ハ、里民相傳フ、昔加藤次景廉、賜遠山庄居霧城以此山為砦、至今有拾得古陶器及箭鏃者

濃陽志略 ─ 里民によれば、阿寺城は昔加藤景廉が遠山荘を賜り霧ヶ城に居りこの山を砦としていた。今でも古陶器や箭鏃(せんぞく) (やじり) を拾う者が居る。

【新撰美濃志】
明照山古城(阿寺ともかく)はむかし加藤次景廉、遠山の庄を領し霧が城におり、此山に砦を築きしよし里民云傳へ今に古陶器箭鏃等を拾ふ事あり、其後ち遠山久兵衛友政遠山大和守一族始めあてらの地にありて、武田家に從ひしが元龜三年苗木にうつる。

新撰美濃志 ─ 明照山古城 (阿寺とも書く) は昔加藤景廉が遠山荘を領して霧ヶ城に居た時に、この山に砦を築いたと里民に伝わっている。今でも古陶器ややじりを拾うことがある。この後、遠山久兵衛友政、遠山大和守一族は最初阿寺の地にあり、武田家に従って 1575年 (天正3年/安土桃山) 苗木に移る。

【御坂越記】
阿寺城址、城下手賀野村、阿寺は明照、手賀野は照根ならん、此城東北は中川の上なり、嶮岨にして川際也、乾の方は平原なれども嶮山なれば登り難く、西は千駄林の城山へ續く谷々あり、本丸より南は高山なれども岩村への通路あり、城郭全備なり、東山道押への要害として岩村の枝城に遠山氏築たりしとぞ、城下は手金村へ續き平原の中に町屋の古蹟多く見え家中屋舗多かりしとぞ。
天正二年三月武田勝頼美濃發向の刻、木曾義昌馬籠より出勝頼は伊奈路より出て、上村、今岑、明知の城を攻む、霧ヶ原之城、落合の城、得の城、一日の内に攻落して阿寺城主遠山次郎四郎友重を討つ、苗木の城主遠山久兵衛友政の弟也、傳に云ふ義昌杣人を夜に入て阿寺城の西山岑に登して、掛樋を落し翌朝急に攻めて、火矢を以て水の手を取り切しと、呼て進て城下を焼く城兵周章して防がずして敗北すと云ふ。

御坂越記 ─ 阿寺城趾、城下手賀野村、阿寺は明照、手賀野は照根である。この城の東北は中津川の上で嶮岨で川際である。北西は平原であるが険しい山で登りがたく、西には千旦林の城山へ続く谷々がある。本丸から南は高い山だが岩村への通路があり城郭は全備である。東山道押への要害として岩村の支城に遠山氏が築いたと伝わる。城下は手金村へ続き、平原の中に町の古蹟が多く見られ家屋も多い。

1574年 (天正2年/安土桃山) 3月、武田勝頼の美濃攻めの時に木曾義昌が馬籠から侵入し、勝頼は伊那路より侵入し、上村、今見、明知の城を攻めた。霧ヶ原の城、落合の城、督ノ城が一日で陥落して、阿寺城主であった遠山次郎四郎友重が討たれた。友重は苗木城主遠山久兵衛友政の弟である。言い伝えによれば木曾義昌は闇夜に紛れて杣人を連れ阿寺城の西峰に登り、掛け樋を落として翌朝急襲し、火矢で水の手を切り落とし、城下を焼いた。城兵は慌てふためいて防御する間もなく敗北したと。

【美濃古蹟考】
明照山城、恵奈郡手金野村に在り、往昔加藤次景廉霧ヶ城に居り、此山に小城を築きしよし、里民言傳へ今に古陶器箭鏃を拾ふ者あり。

美濃古蹟考 ─ 明照山城は恵那郡手金野村にあり。昔霧ヶ城に居た加藤景廉がこの山に小城を築いたと伝わる。今でも古陶器ややじりを拾う者がいる。

【日本地理志料】
阿寺城在手賀野、加藤景廉之居岩村城、置砦于此

日本地理志料 ─ 阿寺城は手賀野にある。岩村城に加藤景廉が居りここに砦を置く。

【輦道驛村略記】
阿寺城址、手賀野村の南凡二十町山上にあり、鎌府の時岩村城主加藤次景廉此に枝城を築く、後遠山氏之に居れり、天正中武田勝頼木曾義昌をして此城を攻めしめ、城主遠山友重戰死し後廢城となる、友重は苗木城主遠山久兵衛友政の弟と云ふ。

輦道驛村略記 ─ 阿寺城趾は手賀野村の南およそ20町 (約2.1km) の山上にある。鎌倉時代の岩村城主加藤景廉がここに枝城を築いた。その後は遠山氏がここに居た。天正年間に武田勝頼が木曾義昌を遣いこの城を攻め、城主の遠山友重が戦死後、廃城となった。友重は苗木城主遠山久兵衛友政の弟と云う。

【濃飛古跡誌】
阿寺城(一に明照ともかく)は、手賀野斧戸山の東北麓にあり、岩村の支城にして、遠山氏の族飯場城主遠山久兵衛尉友忠、其城を長男信友に譲りて、己は二男友重三男友政を携へ來りて之に居り、織田氏の為に武田氏を防ぐ、時は天正二年武田勝頼浸入し勢に乗じて、郡中の諸砦を陥る、當城は友忠父子三人固守し、友重は遂に奮戰して死せり、後苗木城主友勝病死し友忠父子之に移り、當城は廢城となれり、東麓に、菖蒲ヶ平、黑血ヶ洞等戰地の名稱を存す。

濃飛古跡誌 ─ 阿寺城 (明照とも書く) は手賀野斧戸山の東北ふもとに位置する。岩村の支城で、遠山氏族の飯羽間城主遠山久兵衛友忠が長男信友に城を譲り、自分は二男の友重、三男の友政を携えてここに居城して織田氏の為に武田氏を防いだ。時は 1574年 (天正2年/安土桃山)、武田勝頼が侵入し勢いに乗じて郡内の諸砦を攻略した。この城は友忠父子3人が固守し、友重は奮戦して遂に戦死した。後に苗木城主の友勝が病死し、友忠父子は苗木城に移ってこの城は廃城となった。東の麓に菖蒲ヶ平、黒血ヶ洞などの戦地の名称が残っている。

【美濃明細記】
よきど城中津川二十町斗り東、森某居之

美濃明細記斧戸(よきど)城は中津川の20町 (約2.1km) ほど東。森某がここに居た。

【美濃古城史】
中津川城跡、は中津川阿照羅山にあり、遠山左近の居城にして後苗木に徙る、天正年中左近の族人遠山久兵衛と云るもの之に居り、關ヶ原役東軍に屬し苗木城を攻下す、家康久兵衛に苗木を賜ふと云ふ。
よきど城跡、中津川より二十町斗り東に在り、森某の居城なりしと云ふ。

美濃古城史 ─ 中津川城趾は中津川の阿寺山にある。遠山左近の居城であったが後に苗木に移った。天正年間、左近一族の遠山久兵衛という者がこの城におり、関ヶ原の合戦で東軍に属し苗木城を攻め下した。家康は久兵衛に苗木を賜ったと伝わる。

斧戸城趾は中津川から20町 (約2.1km) ほど東にあり、森某の居城と伝わる。

【美濃古蹟考】
中津砦、中津川村にあり、東濃十八箇所の内よきど城は、中津川の二十町斗り東にあり、森某之に居ると明細記に見へたるは卽之なり。
中津川城墟、在恵那郡中津川驛阿照山遠山久兵衛住當城、移同郡苗木城

美濃古蹟考 ─ 中津砦は中津川村にある。東濃十八箇所のうち斧戸城は中津川の20町ほど東にあって森某が居たと明細記に書かれているのはここである。

中津川城趾は恵那郡中津川宿の阿照山にあり、遠山久兵衛がこの城に住み同郡苗木城に移った。

前掲の中、明細記古城記古蹟考等の説は、此の阿寺城と中津川城とを混同し、中津川の部としてあれど、手賀野の事なるべし、尚ほ之れに付きては中津川督ノ城の部に擧げ論じたれば、彼の條を参照すべし、また地名に勝負平とは東、川上川岸の平坦の地なり、黑血ヶ洞とは城趾の東の洞なり、此の處へ木曾勢勝に乗じて蟻集し來りけるにぞ、豫て用意せし木石等を投げ下したるを以て、敵の死傷算なかりければ、斯く黑血ヶ洞と名づけたりといふ、先年此の處より、茶臼錆刀を拾ひ、今松源寺に保存しあり、又會所澤は、中山道駒場の境なり、往古坂本驛の會所のありし所と云ふ、駒場とは、驛馬傳馬を寄せ置きし處と云へば、大化二年に置かれし坂本の驛趾はこのほとりなるべきか。

前述のうち明細記、古城記、古蹟考などの説は、この阿寺城と中津川城とを混同しており、中津川の部としてあるが手賀野のことである。なおこれについては中津川督ノ城の部で論じているのでそちらを参照すべし。また勝負平という地名は東方向の中津川岸の平坦の地である。黒血ヶ洞とは城趾の東の洞である。勝利に乗じてこの場所へ木曾義昌の軍勢が集まった時に、あらかじめ用意しておいた木や石などを投げ入れ、敵の死傷がかなりあったため黒血ヶ洞と名付けられたと伝わる。先年、この場所から茶臼や錆刀が見付かり現在松源寺に保存されている。また中山道駒場の境に会所沢という場所があり、往古坂本駅の会所があった場所と伝わる。また駒場とは駅馬や伝馬を集めておくところというから、646年 (大化2年/飛鳥) に置かれた坂本駅趾とはこのほとりであろうか。

話題

  • 手賀野(てがの) (手金) の地名は阿寺野(あでらの)か照ヶ根野から転じたものか。

関連項目

外部リンク

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