阿曽田遺跡

提供:安岐郷誌
2010年9月5日 (日) 19:25時点におけるTorao (トーク | 投稿記録)による版

移動: 案内, 検索

阿曽田遺跡(あそだいせき)[MAP]は阿曽田の段丘状の平地に存在する縄文時代以降の遺跡。縄文時代前期から晩期にかけての竪穴式住居跡、埋設土器、土坑などの遺構、縄文式土器、矢尻、打製石斧、磨製石斧、種子、貝殻、黒曜石など様々な出土品が見つかっている。これらの出土品は阿木コミュニティセンターなどで管理している。

目次

概要

阿曽田遺跡からは住居跡、土塁、溝遺構、集石、石組など多くの種類の遺構が検出された。これらは縄文時代から現代にわたり阿曽田に居住した人々によって残されたものである。他に江戸時代から現代に至るまでの陶磁器が出土しているが、多くは縄文時代から鎌倉時代にかけてものもである。

住居跡

住居跡は 63 件 (数値は調査中当時のものであるため変動の可能あり; 以下同) あり、内訳は縄文時代 25 件 (前期 4 件、中期 21 件)、弥生時代 1 件、古墳から奈良時代にかけてが 37 件、平安時代 1 件である。なおこれらは上阿曽田 (阿木川右岸) のみであり下阿曽田 (阿木川左岸) からは検出されなかった。

土抗

阿曽田遺跡で最も多く見付かったのは土杭で、その数は 1,300 基以上に登る。土杭とは木の実などの食糧の貯蔵や死者の埋葬のためなどに掘られたものである。しかし土抗のなかから発見された遺物は少なく、時期や目的の明らかになった土抗はわずかであった。その中でも住居跡と同様に縄文時代中期と古墳時代から奈良時代にかけての時期に多い事が分かった。

下阿曽田からは住居跡は発見されなかったが、上流部より 80 基ほどの土抗が認められた。下阿曽田については南側に山がせまっており日当たりが悪く人の居住する条件が悪かったなどの理由が考えられる。

石器

石器は全部で 3,200 点を超え、土器と同じくその 9 割近くが上阿曽田より出土した。打製石斧、石皿、台石、擦石、敲石、石鏃、石槍、磨製石斧、砥石、スクレイパー、石匙、石錘など。 石器は土器のように 50〜100 年で形が変化することはなく、年代を特定するには一緒に出土した土器に頼らざるを得ない。

縄文時代早期の石槍や古墳時代の砥石を除き、大部分が縄文時代中期に属するものと考えられる。

打製石斧は形が斧に似ていたことから石斧の名が付けられているが、実際は植物の根を掘ったり土抗を掘るための道具として使用されていた。形は一般的に短冊形、(ばち)形、分銅形に分類されるが、阿曽田遺跡では短冊形がほとんどで撥形が少し出土した。

石皿は磨石と組み合わせて木の実や固いものを擦りつぶしたり粉にするために使われたものである。 台石も敲石と組み合わせて木の実の殻を打ち壊すのに使われたと考えられる。

縄文時代

住居跡

縄文時代前期の住居跡はすべてその後半に属するもので、そのうち 3 件は直径 3m 前後の円形を呈するなど概して小型である。また分布も上阿曽田地区の中央やや西側 (下流側) に寄っている。一方、中期に属するものは広範囲に分布し、大きさは直径 3〜5m の円形を呈している。

炉趾は前期・中期を通じて住居跡の中央に位置しているが、その形は大きく異なっている。前期では深鉢形の土器を穴の中に埋め込んだだけの埋甕炉が主であるのに対して、中期になると炉穴のまわりを石で囲った石囲い炉が主となる。石囲い炉のなかには内部に丁寧に土器を敷き詰めたものも見付かっている。

中期の住居跡から出土した土器から、それぞれの住居の建てられた年代が推定されたが、これらの住居跡の営まれた時期に大きな開きは認められなかった。一つの時期に数軒の住居があり、それが何世代かにわたって作り替えられていったものと考えられる。

遺物

阿曽田遺跡で最も古い土器は縄文時代早期の終わりに属するものである。この土器は繊維土器と呼ばれ、粘土に植物の繊維が混入されており、土器の型くずれを防ぎより大きなものが作れるように工夫されたものである。この時期に属する土器が破片ばかり数十点出土した。

次に見られるものは縄文時代前期の後半に属するもので、土器の点数も多く、前期末の土器に竹などで直線状あるいは弧状に文様を施したり、縄目模様で表面を覆うといった特徴を持っている。同時期の住居跡は4基確認されている。

縄文時代中期になると土器の数は更に増加し阿曽田遺跡における一つ目のピークとなる。遺跡からは中期全般にわたる土器が出土したが、特に多いのが後半に属するもので、中期の住居跡が全てこの後半のものであることと一致している。この時期の土器は粘土紐を渦巻き状あるいは直線状に貼り付けたり、立体的な取っ手が取り付けられており、一見して豪華な印象を受ける。器の形も主に食料の煮炊きに用いられた深鉢をはじめ浅鉢、壺など豊富になる。後期・晩期に属する土器は少量出土したにすぎない。文様も質素になり無文あるいは簡単な縄目の文様が施されている。

弥生時代

弥生時代の住居跡は上阿曽田地区の下流で 1 基見付かっており、長さ約 5m の方形 (四角形) の住居跡のほぼ中央から埋甕が見付かっている。遺物もこの周辺からわずかに見付かっただけで、阿曽田には一時的に他の地域から移り住んだもので、この時期には集落といえるものは形成されなかったと考えられる。

中津川市内の数カ所から弥生時代の土器片が出土しているが、阿曽田遺跡の調査において土器と住居跡が確認された。

古墳・奈良時代

古墳時代から奈良時代にかけては縄文時代中期と共に阿曽田遺跡で最も多くの遺構、遺物が残された時代である。この時代の住居跡は方形を呈しており、一辺の長さは 3〜7m と大小様々である。

またこの時代には縄文時代の炉趾に代わって(かまど)が造られ食料の煮炊きの他に暖房や除湿の役目も果たした。竈は主に住居の北側の壁に設置され、平坦な石を並べ粘土で固めるか、あるいは粘土だけで造られていた。当遺跡においても西側あるいは北側の壁にやはり石詰みの竈が置かれていた。

古墳時代から奈良時代にかけて使用された土器には土師器(はじき) (低温で焼かれた水持ちの悪い土器) と、須恵器(すえき) (高温で焼かれ硬く水を通さない土器) の二種類があった。土師器は主に食べ物の煮炊きや盛りつけなど日常的に使用されていたものであるのに対して、須恵器は貯蔵用や祭祀など特別の用途に限られたものであった。

阿曽田から出土した土師器の中には内黒(うちぐろ)土師器あるいは黒色(こくしょく)土器と呼ばれる、土師器の壊れやすさと水持ちの悪さを補う土器が出土している。この時代、関東や近畿地方では多く使われてたものであるが、東海地方では須恵器の産地に近く容易に須恵器を入手できたために内黒土器が使用されることはなかった。ところが長野県下では内黒土器が大量に使用されており、今回阿曽田遺跡より発見されたことは、古代の流通経路を知る上で重要な資料を提供したことになる。

この時代区分に出土した土器から 200〜300 年に渡り阿曽田で生活が営まれてきたことは明かである。しかし縄文時代中期の集落と同じく、同時に存在した住居跡は多くなく、その数は数件に過ぎなかったと考えられる。阿曽田の調査では、当時一軒の家で、土師器は煮炊き用に用いられる長胴瓶が 2〜3 個、短胴瓶が 2〜3 個、盛りつけなどに用いられた高坏(たかつき)および杯がそれぞれ 1〜2 個、須恵器では杯の類が 2〜3 個使用されていたものと考えられる。

またこの時代の遺物としては糸を紡ぐのに使われていた土あるいは石で造られた紡錘車、銅環とよばれる耳飾りが出土している。

平安時代

ロクロを使い釉薬を塗って高温で焼かれた灰釉陶器と呼ばれる焼き物が出土。また平安時代に属する住居跡から土錘と呼ばれる棘網用の重りが約 120 個出土した。これらは阿木川で使用されていたと考えられる。

鎌倉時代

灰釉陶器が多量生産されるようになり質が落ちる。 阿木地区では山茶碗の出土する遺跡が各所にあるが、阿曽田遺跡から少量しか出土しなかった。

現状

現在の阿曽田遺跡は阿木川湖に沈んでいる。渇水期には歩くこともできるが、既に遺跡全体に渡って 10cm 程の泥が堆積している。

参照

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
Sponsored Link
ツールボックス
Sponsored Link