阿木城跡

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{{ruby|'''阿木城'''|あぎじょう}}は戦国時代に使用されていた中世の城。<strong>遠山十八子城</strong> (岩村城の枝城) の一つとして信長軍記、甲陽軍鑑などにその名が記録されている。
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{{ruby|'''阿木城'''|あぎじょう}}は戦国時代に築かれた中世の城。[[遠山十八支城]] (岩村城の枝城) の一つとして信長軍記、甲陽軍鑑などにその名が記されている。
  
[[見沢八幡神社]]裏手の{{ruby|[[城ヶ峰]]|じょうがね}}と呼ばれる里山に山城の遺構が残っており、そこに城か砦のようなものがあったと古くから伝えられている。ただし平時に役人や兵士が居る屋敷や詰め所は別にあって、城ヶ峰は見張りや戦時に立て篭もるための山城だったという見立てが一般的である。
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[[見沢八幡神社]]裏手の{{ruby|[[城ヶ峰]]|じょうがね}}と呼ばれる里山に山城の遺構が残っており、そこに城か砦のようなものがあったと古くから伝えられている。ただし石垣などのような長期にわたって居住するための遺構は存在しておらず、見張りや戦時に立て篭もるための山城だったと考えられる。
  
 
現在ではこの城ヶ峰の山城跡を阿木城跡と呼んでいる。
 
現在ではこの城ヶ峰の山城跡を阿木城跡と呼んでいる。
  
 
== 沿革 ==
 
== 沿革 ==
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[[File:Japanese Crest gosunihashi.svg|thumb|合子箸]]
 
阿木城 (山城) がいつ頃に築かれたものなのかははっきりしていない。岩村城の[[八幡神社 (岩村)|八幡神社]]から勧請された[[八幡神社 (見沢)|神社]]があることからも、岩村遠山氏が支配していた時代である。
 
阿木城 (山城) がいつ頃に築かれたものなのかははっきりしていない。岩村城の[[八幡神社 (岩村)|八幡神社]]から勧請された[[八幡神社 (見沢)|神社]]があることからも、岩村遠山氏が支配していた時代である。
  
 
* 永享年間 {{note|(1429-1440年/室町後期)}} 頃から遠山安木孫太郎の支配。
 
* 永享年間 {{note|(1429-1440年/室町後期)}} 頃から遠山安木孫太郎の支配。
* 文安年間 {{note|(1444-1448年/室町後期)}} 頃から遠山安木孫次郎の支配 (長享元年 {{note|(1487年)}} 江州御動座到着に孫太郎の名あり)。
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* 文安年間 {{note|(1444-1448年/室町後期)}} 頃から遠山安木孫次郎の支配。
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* 応仁元年 {{note|(1467年/室町後期)}} 見聞諸家紋 其之弐拾参 三番に安木遠山氏の家紋「合子箸」あり。
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* 長享元年 {{note|(1487年/室町後期)}} 江州御動座到着に孫太郎の名あり
 
* {{年号|1574}} 武田勝頼の軍勢のより陥落。
 
* {{年号|1574}} 武田勝頼の軍勢のより陥落。
 
* {{年号|1575}} 信長が岩村城を奪還。
 
* {{年号|1575}} 信長が岩村城を奪還。
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山頂の本曲輪 (本丸) は直径50m近いほぼ円形で<strong>千畳敷</strong>と呼ばれている。この周囲に二ノ曲輪、腰曲輪、堀切などの造成跡が残っている。石垣や石段のような本曲輪への長期的・恒常的な往来を示す遺構は存在しない。脆い土壌の土塁造りながら良い状態で現在まで残っているのは現在のように造成されて期間を置かずに森に戻ったためであろう。
 
山頂の本曲輪 (本丸) は直径50m近いほぼ円形で<strong>千畳敷</strong>と呼ばれている。この周囲に二ノ曲輪、腰曲輪、堀切などの造成跡が残っている。石垣や石段のような本曲輪への長期的・恒常的な往来を示す遺構は存在しない。脆い土壌の土塁造りながら良い状態で現在まで残っているのは現在のように造成されて期間を置かずに森に戻ったためであろう。
  
小規模ながら本格的な造りとなっているのは、元亀3年から天正2年 {{note|(1572-1574年)}} にかけて武田軍に落とされた[[岩村城]]に対する織田方の最前線拠点となったためと推測される<ref>織田方の兵法築城に通じた軍学者によるものかもしれない。</ref>。
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小規模ながら本格的な造りとなっているのは、元亀3年から天正2年 {{note|(1572-1574年)}} にかけて武田軍に落とされた[[岩村城]]に対する織田方の最前線拠点となったためと推測される。織田方の兵法築城に通じた軍学者によるものか。
  
 
[[File:阿木城からの景色.gif|thumb|城ヶ峰山頂から南]]
 
[[File:阿木城からの景色.gif|thumb|城ヶ峰山頂から南]]
山頂からは杉の木に遮られなければ岩村城を臨む事が出来る<ref>伐採などを行わなくても Google Earth で確認可能。本庄では[[打杭峠]]に阻まれて見えない。</ref>。ただし岩村城への狼煙場というには近すぎるし、そもそも岩村城からは[[保古山]]や[[花無山]]の山頂が見えるため、それらの見張り台から直接上げた方が早いと言える。阿木は岩村・大井・中津を繋げる道の合流地点であるため、防衛拠点と併せて兵の詰め所や伝令の中継地点という役割が大きかったと思われる。
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本曲輪からは杉の木に遮られなければ岩村城を臨む事が出来る<ref>Google Earth で確認。本庄からでは[[打杭峠]]に阻まれて見ることが出来ない。</ref>。ただし岩村城への狼煙場というには近すぎるし、そもそも岩村城からは[[保古山]]や[[花無山]]の山頂が見えるため、それらの見張り台から直接上げた方が早いと言える。阿木は岩村・大井・中津を繋げる道の合流地点であるため、防衛拠点と併せて兵の詰め所や伝令の中継地点という役割が大きかったと思われる。
  
 
また城ヶ峰の山頂は阿木の中心地域のほとんどと[[岩村街道]] ([[県道407号]]) を見渡すのにも都合が良い。
 
また城ヶ峰の山頂は阿木の中心地域のほとんどと[[岩村街道]] ([[県道407号]]) を見渡すのにも都合が良い。
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== 写真集 ==
 
== 写真集 ==
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<i>[[阿木城跡/写真集]]参照。</i>
File:阿木城 城ヶ峰04.jpg|<map title="阿木城城ヶ峰" lon="137.462319" lat="35.399853"/>2009/02 墓地の先。車2〜3台を停められそうなスペースがある。
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File:阿木城 城ヶ峰01.jpg|<map title="阿木城城ヶ峰" lon="137.462319" lat="35.399853"/>2009/02 登り口には市の標柱が立てられている。この墓地も出曲輪か。
+
File:阿木城 城ヶ峰03.jpg|<map title="阿木城城ヶ峰" lon="137.462181" lat="35.400192"/>2009/02 この墓地も出曲輪か。まだ岩村城は見えない。
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File:阿木城 城ヶ峰02.jpg|<map title="阿木城城ヶ峰" lon="137.462236" lat="35.40017"/>09/02/21 杉の山道は藪もなく歩きやすい。
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File:阿木城 城ヶ峰05.jpg|<map title="阿木城城ヶ峰" lon="137.462319" lat="35.399853"/>2009/02 瑞浪層群の堆積岩(サバ)は海底だった痕跡。第四期に隆起した山か。
+
File:阿木城 城ヶ峰06.jpg|<map title="阿木城城ヶ峰" lon="137.462264" lat="35.400396"/>2009/02 邪魔な藪もなくよく手入れされている。
+
File:阿木城 城ヶ峰07.jpg|<map title="阿木城城ヶ峰" lon="137.462319" lat="35.399853"/>2009/02 山の途中には造成された曲輪が何ヶ所も見られる。
+
File:阿木城 城ヶ峰08.jpg|<map title="阿木城城ヶ峰" lon="137.463042" lat="35.401427"/>2009/02 敵を横へ広げにくくするための縦堀りか。
+
File:阿木城 城ヶ峰09.jpg|<map title="阿木城城ヶ峰" lon="137.46248" lat="35.40069"/>09/02/21 荷車を通せるほどの広い道がきれいに残っている。
+
File:阿木城 城ヶ峰10.jpg|<map title="阿木城城ヶ峰" lon="137.463167" lat="35.401449"/>2009/02 二の曲輪。輪郭もはっきり残っている。
+
File:阿木城 城ヶ峰11.jpg|<map title="阿木城城ヶ峰" lon="137.463069" lat="35.401642"/>2009/02 本曲輪。千畳敷と呼ばれている。阿木城跡の標柱が立っている。
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</gallery>
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== 文献 ==
 
== 文献 ==
[[阿木城]]に関する文献解説。
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[[阿木城]]に関する諸文献。
  
 
=== 美濃明細記 ===
 
=== 美濃明細記 ===
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[[File:阿木城縄張図.png|thumb|阿木城縄張図]]
 
江戸時代中期の美濃明細記<ref><strong>[http://opac.lib.ryukoku.ac.jp/kicho/exhibi/cont_02/pages_02/v_menu/0208.html 美濃明細記]</strong>, <i>伊東実臣</i>, 1738年(元文3年)</li></ref>の''[http://opac.lib.ryukoku.ac.jp/kicho/exhibi/cont_02/pages_02/0208S/02080152.html 恵那郡遠山荘]''には支城の一つとして阿木城の名前が挙げられている。
 
江戸時代中期の美濃明細記<ref><strong>[http://opac.lib.ryukoku.ac.jp/kicho/exhibi/cont_02/pages_02/v_menu/0208.html 美濃明細記]</strong>, <i>伊東実臣</i>, 1738年(元文3年)</li></ref>の''[http://opac.lib.ryukoku.ac.jp/kicho/exhibi/cont_02/pages_02/0208S/02080152.html 恵那郡遠山荘]''には支城の一つとして阿木城の名前が挙げられている。
  
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串原 遠山弥右彳 天正二年勝頼攻取<br/>
 
串原 遠山弥右彳 天正二年勝頼攻取<br/>
 
久須見 佐々良木 藤 阿木 野井 曽木等之城 一族居之
 
久須見 佐々良木 藤 阿木 野井 曽木等之城 一族居之
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明智 遠山氏部 (後に相模守)、號は乾樹院。甲陽軍鑑に天正 2 年武田勝頼が明智城遠山与助を攻略云々とある。<br/>
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飯羽間 遠山右衛門。天正 2 年に勝頼が攻略。<br/>
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串原 遠山弥右衛門。天正 2 年に勝頼が攻略。<br/>
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久須見、佐々良木、藤、阿木、野井、曽木等が一族の居た場所である。
 
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=== 巖邑府誌 ===
 
=== 巖邑府誌 ===
美濃明細記より10年ほど後の巖邑府誌<ref><strong>[[巖邑府誌]]</strong>, <i>首藤元震</i>, 1751年(寛永4年) (<i>岩村町教育委員会</i>, 昭和53年, 大衆書房)</ref>の[[巖邑府誌/安岐|安岐]]に阿木城について詳しく書かれている。
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美濃明細記より10年ほど後の[[巖邑府誌]]<ref><strong>巖邑府誌</strong>, <i>首藤元震</i>, 1751年(寛永4年) (<i>岩村町教育委員会</i>, 昭和53年, 大衆書房)</ref>の[[巖邑府誌/安岐|安岐]]に阿木城について詳しく書かれている。
  
 
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○城山跡は本城 {{note|(本庄)}} の西にある。里人によれば昔は大藤権允という人が城を守っており、かつて[[打杭峠|打杭山]]で岩村兵と共に戦ったと云われているがいつの事であるかは分からない。また堀田某という者が城を守り見沢殿と呼ばれていた。現在も堀田という地名があり邸舎の跡もある。調べてみると遠山子城の一つに振田がある。堀田と読みが近いためこれは安岐城を指したものだろうか。
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城山跡は本城 {{note|(本庄)}} の西にある。里人によれば昔は大藤権允という人が城を守っており、かつて[[打杭峠|打杭山]]で岩村兵と共に戦ったと云われているがいつの事であるかは分からない。また堀田某という者が城を守り見沢殿と呼ばれていた。現在も堀田という地名があり邸舎の跡もある。調べてみると遠山子城の一つに振田がある。堀田と読みが近いためこれは安岐城を指したものだろうか。
 
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<strong>大藤権允</strong>、また<strong>堀田</strong>という者が阿木城を守っていた書かれている ([[w:甲陽軍鑑|甲陽軍鑑]]に阿木城は堀田という名で載ってるという{{要調査}})。[[堀田屋敷跡]]は現在久須田の倶楽部がある場所。この他にも野田に砦跡があると書かれているが野田の里老に聞いても所在は不明である。
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<strong>大藤権允</strong>、また<strong>堀田</strong>という者が阿木城を守っていた書かれている ([[w:甲陽軍鑑|甲陽軍鑑]]に阿木城は堀田という名で載ってるという{{要調査}})。[[堀田屋敷跡]]は現在[[倶楽部 (久須田)|久須田の倶楽部]]がある場所である。またこの他にも野田に砦跡があると書かれているが野田の古老に聞いても所在は不明である。
  
また[[巖邑府誌/遠山子城|遠山子城]]では振田という城の名を挙げてこれが阿木城ではないかと推測している。甲陽軍鑑あたりに載っていた堀田という名が当時は振田で伝わっていたのだろう。
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また振田という城の名を挙げてこれが阿木城ではないかと推測しているが、甲陽軍鑑あたりに載っていた堀田という名が当時は振田で岩村に伝わっていたのかもしれない。
  
 
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=== 大日本地名辞書 ===
 
=== 大日本地名辞書 ===
明治時代の大日本地名辞書<ref><strong>増補 大日本地名辞書 第五巻 北国・東国</strong>, <i>吉田東伍</i>, 1902年(明治35年), 冨山房</ref>の''岩村城址''の項には岩村城の枝城として阿木城の名が挙げられている。
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明治時代の[[大日本地名辞書]]の''岩村城址''の項には岩村城の枝城として阿木城の名が挙げられている。
  
 
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室町時代後期の永享年間 {{note|(1429-1440年)}} 頃から遠山氏族である<strong>遠山安木孫太郎</strong>が阿木村の役人だったと書かれている。阿木遠山氏と言ったところだろうか。
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室町時代後期の永享年間 {{note|(1429-1440年)}} 頃から遠山氏族である<strong>遠山安木孫太郎</strong>が阿木村の役人だったと書かれている。いわゆる阿木遠山氏である。
  
長享元年 {{note|(1487年)}} 江州御動座到着とは「長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座當時在陣衆着到」の事。これは将軍{{ruby|足利義尚|あしかがよしひさ}}が室町幕府への圧力を強めていた近江守護六角頼高の討伐 ([[w:六角討伐|六角討伐]]) へ向かった時の軍記である。編成した総勢 8,000 人に及ぶ外様衆に孫太郎の子である<strong>遠山安木孫次郎</strong>の部隊が参加した事が分かる。
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長享元年 {{note|(1487年)}} 江州御動座到着とは「長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座當時在陣衆着到」の事で、将軍{{ruby|足利義尚|あしかがよしひさ}}が室町幕府への圧力を強めていた近江守護六角頼高の討伐 ([[w:六角討伐|六角討伐]]) へ向かった時の軍記である。編成した総勢 8,000 人に及ぶ外様衆に孫太郎の弟である<strong>遠山安木孫次郎</strong>の部隊が参加していた事が分かる<ref>この時代の名前に付けられる太、次、三、四… とは嫡位 (跡継ぎの優先順位) を示している。また「孫」とは偉業をなした祖父にあやかって付ける場合が多く、つまり孫太郎の祖父の代で領地を賜り岩村遠山氏より分家独立した可能性が高い。</ref>。
  
なお、遠山来由記には「遠山孫太郎左衛門尉景長」なる者が記載されているが、文応、弘長、文永など 1260年代頃 {{note|(鎌倉中期)}} の人物であるためこの遠山安岐孫太郎とは別人だろう。
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なお、遠山来由記には「遠山孫太郎左衛門尉景長」なる者が記載されているが、文応、弘長、文永など 1260年代頃 {{note|(鎌倉中期)}} の人物である事から遠山安岐孫太郎とは別人である<ref>こちらは初代遠山氏である遠山景朝の孫の意味と思われる。</ref>。
  
 
=== 角川日本地名辞典 ===
 
=== 角川日本地名辞典 ===
  
角川日本地名辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店</ref>の''阿木''の項には遠山安木孫太郎・孫次郎が阿木村を納めていた時代が記されている。
+
[[角川日本地名大辞典]]の''阿木''の項には遠山安木孫太郎・孫次郎が阿木村を納めていた時代が記されている。
  
 
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{{-}}
 
{{-}}
  
== 四方山話 ==
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== 話題 ==
* 巖邑府誌によれば野田にも砦の跡があると書かれている詳細不明{{要調査}}。
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* 巖邑府誌には野田にも砦の跡があると書かれているが詳細不明{{要調査}}。
 
* 本庄という地名から、現在の[[阿木高校]]から[[忠霊塔]]、[[阿木村役場|旧村役場]]付近に城館 (本城) があったのかもしれない。
 
* 本庄という地名から、現在の[[阿木高校]]から[[忠霊塔]]、[[阿木村役場|旧村役場]]付近に城館 (本城) があったのかもしれない。
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
* [[岩村城]], [[飯羽間城]], [[大井城]]
+
* [[岩村城]]
 +
* [[遠山十八支城]]
 
* [[八幡神社 (見沢)]]
 
* [[八幡神社 (見沢)]]
 
* [[阿弥陀堂 (見沢)]]
 
* [[阿弥陀堂 (見沢)]]
 
* [[堀田屋敷跡]]
 
* [[堀田屋敷跡]]
 
* [[岩村城の戦い]]
 
* [[岩村城の戦い]]
 +
* [[共同墓地 (見沢)]]
  
 
[[Category:五分団|あきしようあと]]
 
[[Category:五分団|あきしようあと]]
 
[[Category:旧跡|あきしようあと]]
 
[[Category:旧跡|あきしようあと]]
 
[[Category:中世|あきしようあと]]
 
[[Category:中世|あきしようあと]]

2013年3月18日 (月) 23:57時点における最新版

名所旧跡
180px
阿木城跡
住所岐阜県中津川市阿木字大門前
位置[MAP]N35:24:06.40/E137:27:46.74
遺構本曲輪、二ノ曲輪、腰曲輪、堀切
文化財市指定史跡
標高532m
交通明知鉄道阿木駅徒歩20分

阿木城(あぎじょう)は戦国時代に築かれた中世の城。遠山十八支城 (岩村城の枝城) の一つとして信長軍記、甲陽軍鑑などにその名が記されている。

見沢八幡神社裏手の城ヶ峰(じょうがね)と呼ばれる里山に山城の遺構が残っており、そこに城か砦のようなものがあったと古くから伝えられている。ただし石垣などのような長期にわたって居住するための遺構は存在しておらず、見張りや戦時に立て篭もるための山城だったと考えられる。

現在ではこの城ヶ峰の山城跡を阿木城跡と呼んでいる。

目次

[編集] 沿革

阿木城 (山城) がいつ頃に築かれたものなのかははっきりしていない。岩村城の八幡神社から勧請された神社があることからも、岩村遠山氏が支配していた時代である。

  • 永享年間 (1429-1440年/室町後期) 頃から遠山安木孫太郎の支配。
  • 文安年間 (1444-1448年/室町後期) 頃から遠山安木孫次郎の支配。
  • 応仁元年 (1467年/室町後期) 見聞諸家紋 其之弐拾参 三番に安木遠山氏の家紋「合子箸」あり。
  • 長享元年 (1487年/室町後期) 江州御動座到着に孫太郎の名あり
  • 1574年 (天正2年/安土桃山) 武田勝頼の軍勢のより陥落。
  • 1575年 (天正3年/安土桃山) 信長が岩村城を奪還。

[編集] 構造

阿木城はまだ本格的な調査が行われていないが、脆いサバ (堆積岩) の山肌ながら杉の根が土壌を保持しており非常によい状態の遺構が残っている。

山頂の本曲輪 (本丸) は直径50m近いほぼ円形で千畳敷と呼ばれている。この周囲に二ノ曲輪、腰曲輪、堀切などの造成跡が残っている。石垣や石段のような本曲輪への長期的・恒常的な往来を示す遺構は存在しない。脆い土壌の土塁造りながら良い状態で現在まで残っているのは現在のように造成されて期間を置かずに森に戻ったためであろう。

小規模ながら本格的な造りとなっているのは、元亀3年から天正2年 (1572-1574年) にかけて武田軍に落とされた岩村城に対する織田方の最前線拠点となったためと推測される。織田方の兵法築城に通じた軍学者によるものか。

城ヶ峰山頂から南

本曲輪からは杉の木に遮られなければ岩村城を臨む事が出来る[1]。ただし岩村城への狼煙場というには近すぎるし、そもそも岩村城からは保古山花無山の山頂が見えるため、それらの見張り台から直接上げた方が早いと言える。阿木は岩村・大井・中津を繋げる道の合流地点であるため、防衛拠点と併せて兵の詰め所や伝令の中継地点という役割が大きかったと思われる。

また城ヶ峰の山頂は阿木の中心地域のほとんどと岩村街道 (県道407号) を見渡すのにも都合が良い。

  1. ^ Google Earth で確認。本庄からでは打杭峠に阻まれて見ることが出来ない。

[編集] 写真集

阿木城跡/写真集参照。

[編集] 文献

阿木城に関する諸文献。

[編集] 美濃明細記

阿木城縄張図

江戸時代中期の美濃明細記[1]恵那郡遠山荘には支城の一つとして阿木城の名前が挙げられている。

明智 遠山氏部後相模守号乾樹院甲陽軍鑑ニハ天正二年勝頼明智城遠山与助ヲ攻取云々
飯羽間 遠山右衛門天正二年勝頼攻取
串原 遠山弥右彳 天正二年勝頼攻取
久須見 佐々良木 藤 阿木 野井 曽木等之城 一族居之

明智 遠山氏部 (後に相模守)、號は乾樹院。甲陽軍鑑に天正 2 年武田勝頼が明智城遠山与助を攻略云々とある。
飯羽間 遠山右衛門。天正 2 年に勝頼が攻略。
串原 遠山弥右衛門。天正 2 年に勝頼が攻略。
久須見、佐々良木、藤、阿木、野井、曽木等が一族の居た場所である。

[編集] 巖邑府誌

美濃明細記より10年ほど後の巖邑府誌[2]安岐に阿木城について詳しく書かれている。

城山跡は本城 (本庄) の西にある。里人によれば昔は大藤権允という人が城を守っており、かつて打杭山で岩村兵と共に戦ったと云われているがいつの事であるかは分からない。また堀田某という者が城を守り見沢殿と呼ばれていた。現在も堀田という地名があり邸舎の跡もある。調べてみると遠山子城の一つに振田がある。堀田と読みが近いためこれは安岐城を指したものだろうか。

邸の壁跡は現在でも残っている。農民がここを耕すと矛先ややじり、酒などを入れる瓶の破片などが掘り出される。また八屋戸 (八屋砥) の土地から銭をまとめる紐も見付かっている。

城跡の南の鬱蒼とした森の中には八幡神社が祀られている。これは見沢社とも呼ばれ武並神が祀られているという。田畑の中に高さ数仞の鳥居があるようだが、現在見沢と言われているところは古い壇場だったのではないだろうか。もしそうなら、俗に廟社を指して宮と言うが見沢は宮沢の訛りであろう。

○野田の村山にもまた砦跡がある。

大藤権允、また堀田という者が阿木城を守っていた書かれている (甲陽軍鑑に阿木城は堀田という名で載ってるという[要調査])。堀田屋敷跡は現在久須田の倶楽部がある場所である。またこの他にも野田に砦跡があると書かれているが野田の古老に聞いても所在は不明である。

また振田という城の名を挙げてこれが阿木城ではないかと推測しているが、甲陽軍鑑あたりに載っていた堀田という名が当時は振田で岩村に伝わっていたのかもしれない。

○振田という城の所在は分かっていない。調べると安岐城を堀田という者が守っていたと云う。振田と堀田は読みが似ているため安岐城を指すのではないだろうか。

[編集] 大日本地名辞書

明治時代の大日本地名辞書岩村城址の項には岩村城の枝城として阿木城の名が挙げられている。

其枝城は苗木、明智、飯羽間、串原、大井等なり、織田軍記「明智の城主、遠山勘左衛門云々、久須見、佐良木、阿木、野井、曾木の諸城」とあり、

また同書の安岐郷の項には以下のように書かれている。

永享以来御番帳に、遠山安木孫太郎見え、また長享元年江州御動座到着に濃州遠山安城孫次郎としるし、家家紋帳にも遠山安木氏の家紋をのせたり、皆こゝの人なるべし。

室町時代後期の永享年間 (1429-1440年) 頃から遠山氏族である遠山安木孫太郎が阿木村の役人だったと書かれている。いわゆる阿木遠山氏である。

長享元年 (1487年) 江州御動座到着とは「長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座當時在陣衆着到」の事で、将軍足利義尚(あしかがよしひさ)が室町幕府への圧力を強めていた近江守護六角頼高の討伐 (六角討伐) へ向かった時の軍記である。編成した総勢 8,000 人に及ぶ外様衆に孫太郎の弟である遠山安木孫次郎の部隊が参加していた事が分かる[3]

なお、遠山来由記には「遠山孫太郎左衛門尉景長」なる者が記載されているが、文応、弘長、文永など 1260年代頃 (鎌倉中期) の人物である事から遠山安岐孫太郎とは別人である[4]

[編集] 角川日本地名辞典

角川日本地名大辞典阿木の項には遠山安木孫太郎・孫次郎が阿木村を納めていた時代が記されている。

のち中世には遠山氏の支配するところとなり、文安番帳には安城孫次郎、永享番帳には遠山安木孫太郎の名が見える。

孫太郎は永享年間 (1429-1440年) 頃、孫次郎は文安年間 (1444-1448年) 頃の人である。

  1. ^ 美濃明細記, 伊東実臣, 1738年(元文3年)
  2. ^ 巖邑府誌, 首藤元震, 1751年(寛永4年) (岩村町教育委員会, 昭和53年, 大衆書房)
  3. ^ この時代の名前に付けられる太、次、三、四… とは嫡位 (跡継ぎの優先順位) を示している。また「孫」とは偉業をなした祖父にあやかって付ける場合が多く、つまり孫太郎の祖父の代で領地を賜り岩村遠山氏より分家独立した可能性が高い。
  4. ^ こちらは初代遠山氏である遠山景朝の孫の意味と思われる。

[編集] 交通

  • JR中央線恵那駅より明知鉄道に乗り換え阿木駅下車。本曲輪まで徒歩約20分。
  • 中央自動車道恵那ICより国道19号-国道257号、阿木川ダム花無山トンネル通過後左折直進。恵那ヂーゼル横のコイン精米器前もしくは阿木駅に駐車が可能 (山道入り口は小型車のみ)。


[編集] 話題

  • 巖邑府誌には野田にも砦の跡があると書かれているが詳細不明[要調査]
  • 本庄という地名から、現在の阿木高校から忠霊塔旧村役場付近に城館 (本城) があったのかもしれない。

[編集] 関連項目

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