阿木城跡

提供:安岐郷誌
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名所旧跡
阿木城跡
阿木城跡
所在地岐阜県中津川市阿木字大門前
位置N35:24:08.28, E137:27:45.36[MAP] (標高532m)
遺構本曲輪、二ノ曲輪、腰曲輪、堀切
文化財市指定史跡
交通明知鉄道阿木駅徒歩20分

阿木城(あぎじょう)は戦国時代に使用されていた中世の城。遠山十八子城 (岩村城の枝城) の一つとして信長軍記、甲陽軍鑑などにその名が記録されている。

見沢八幡神社裏手の城ヶ峰(じょうがね)に山城の遺構が残っており、そこに城か砦のようなものがあったと古くから伝えられている。ただし平時に役人や兵士が居る屋敷や詰め所は別にあって、城ヶ峰は見張りや戦時に立て篭もるための山城だったという見立てが一般的である。

現在ではこの城ヶ峰の山城跡を阿木城跡と呼んでいる。

目次

沿革

阿木城 (山城) がいつ頃に築かれたものなのかははっきりしていない。少なくとも周辺地域が武田と織田の最前線となった戦国から安土桃山時代にかけて、安岐遠山氏の城としてあったのだろう。

  • 永享年間 (1429-1440年/室町後期) 頃から遠山安木孫太郎の支配。
  • 文安年間 (1444-1448年/室町後期) 頃から遠山安木孫次郎の支配 (長享元年 (1487年) 江州御動座到着に孫太郎の名あり)。
  • 1574年 (天正2年/安土桃山) 武田勝頼の軍勢のより陥落。

構造

阿木城はまだ本格的な調査が行われていないが、脆いサバ (堆積岩) の山肌ながら杉の根が土壌を保持しており非常によい状態で遺構が残っている。

城ヶ峰山頂の本曲輪 (本丸) は千畳敷と呼ばれており、この周囲に二ノ曲輪、腰曲輪、堀切などの造成跡が残っている。ただし石垣や石畳のような長期的・恒常的な本曲輪への往来を示す遺構は存在しない。また脆い土壌の土塁造りながら良い状態で現在まで残っているのは、武田勝頼の軍勢に落とされて程なく森に戻ったためであろう。

小規模ながら本格的な造りとなっているのは、元亀3年から天正2年 (1572-1574年) にかけて武田軍に落とされた岩村城に対する織田方の最前線拠点となったためであろう[1]。ただし岩村城から勧請された八幡神社を見ても、岩村遠山氏時代からここが城または砦として使用されていたのは明らかである。

城ヶ峰山頂から南

城ヶ峰の山頂からは杉の木に遮られなければ岩村城を臨む事が出来る[2]。しかし岩村城への狼煙場というには近すぎるし、そもそも岩村城からは保古山や花無山の山頂が見えるため、それらの見張り台から直接上げた方が早い。

阿木は岩村と大井・中津を繋げる道の合流地点であるため、防衛拠点と併せて兵の詰め所や伝令の中継地点という役割が大きかったのだろう。

また城ヶ峰の山頂は阿木の中心地域のほとんどと岩村街道 (県道407号) を見渡すのにも都合が良い。

  1. ^ 織田方の兵法築城に通じた軍学者によるものかもしれない。
  2. ^ Google Earth で確認。本庄は打杭峠に阻まれて見えない。金山神社の丘の上で見えるか見えないかというところ。

写真集

交通

  • JR中央線恵那駅より明知鉄道に乗り換え阿木駅下車。本曲輪まで徒歩約15分。
  • 中央自動車道恵那ICより国道19号-国道257号、阿木川ダム花無山トンネル通過後左折直進。恵那ヂーゼル横のコイン精米器前もしくは阿木駅に駐車が可能。


四方山話

  • 野田にも砦の跡があると聞くが詳細不明[要調査]
  • 現在の阿木高校から忠霊塔付近に城館 (本城) があったのかもしれない (本城が転じて本庄の字になった)。

参照

外部リンク

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