風神神社

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== 沿革 ==
 
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風窟が祀られ始めた時期は分かっていない。阿木川上流の山々が古くは行事岳と呼ばれて[[長楽寺]]や[[龍泉寺]]修行僧の修験の場とされていた事から、長楽寺・龍泉寺の隆盛期である平安から戦国の頃には霊場と祀られていたものであろう。
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風窟が祀られ始めた時期は分かっていない。阿木川上流の山々が古くは行事岳と呼ばれて[[長楽寺]]や[[龍泉寺]]修行僧の修験の場とされていた事から、長楽寺・龍泉寺の隆盛期である平安から戦国の頃には霊場と祀られていたものであろう。由緒にあるように昔は女人禁制だったという事も修験との関わりを示している。
  
{{年号|1959}} 9月26日、[[w:伊勢湾台風|伊勢湾台風]]の時に風神神社を参拝した人々の家だけが被災を免れたという事から霊験が広まり、近年でも大祭の折には愛知県などの遠方から信仰者が訪れている。
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* {{年号|1618}} 6月再建。奈良生駒の[http://genbu.net/data/yamato/tatuta2_title.htm 龍田大社]より天御柱命 ({{ruby|[[w:級長津彦命|級長津彦命]]|シナツヒコノミコト}}/男神)、国御柱命 ({{ruby|級長都姫命|シナツヒメノミコト}}/女神) 勧請。
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* {{年号|1959}} 9月26日、三河方面で[[w:伊勢湾台風|伊勢湾台風]]の時に風神神社を参拝した人々の家だけが被災を免れたという事から霊験が広まる。
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* {{年号|1983}} [[9.28災害]]で神社横の沢が氾濫。社殿が倒壊し、参道の一部も崩落・通行不能。
  
昭和50年代に風神神社の由緒や例祭様式が奈良龍田大社に由来していることが分かり、以来毎年の例祭時には龍田大社から宮司さんを招いている。
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昭和50年代から毎年の例祭時には龍田大社から宮司さんを招いている。
 
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{{年号|1983}} の [[9.28災害]]で神社横の沢が氾濫し社殿が倒壊。また参道の一部も崩落して通行不能となった。現在の社殿はその後に再建されたものである。
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== 由緒 ==
 
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{{年号|1618}} 6月に奈良生駒の[http://genbu.net/data/yamato/tatuta2_title.htm 龍田大社]より天御柱命 ({{ruby|[[w:級長津彦命|級長津彦命]]|シナツヒコノミコト}}/男神)、国御柱命 ({{ruby|級長都姫命|シナツヒメノミコト}}/女神) 勧請と記されている。
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=== 巖邑府誌 ===
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○真原の山に常に風が吹き出ている{{ruby|風窟|かざあな}}がある。里人は暴風による農作物の被害を免れると云い、夏になると祭りを執り行う。またその風窟に石を投げる者が居ればたちまち暴風が起きその者も難に遭うと云う。多分に愚かな田舎者の言であろう。
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最後の一言が余計だが、江戸時代中期には現在と同じ言い伝えがあり風鎮祭のような儀式も行われていたことが窺える。神や神社といった言葉が出て来ないのは、当時はまだ神社の様式になっておらず霊場のようなものだったのかも知れない。
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=== 日本歴史地名大系 ===
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日本歴史地名大系<ref><strong>日本歴史地名大系 第二一巻 岐阜の地名</strong>, <i>所三男</i>, 1993年(平成5年), 平凡社</ref>には以下のように記述されている。
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夏風三郎が何を示すかは不明。
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=== 郷土資料辞典 ===
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郷土資料辞典<ref><strong>ふるさとの文化遺産 郷土資料辞典㉑ 岐阜県</strong>, <i>大迫忍(発)/齋藤建夫(編)</i>, 1997年(平成9年), 株式会社人文社</ref>の''風神神社''の項には以下のように記述されている。
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-->… 崇神天皇の時、凶作がつづいたので、風の神に祈り、大和の竜田神社から勧請して創建したと伝えられる古社である。…<!-- このあたりは阿木川の景色がとくにすばらしく、ハイカーたちの訪れの多いところである。--><br/>[祭神] 天御柱命・国御柱命
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</blockquote>
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{{ruby|[[w:崇神天皇|崇神天皇]]|すじんてんのう}}は記紀に記されている第十代天皇。この代では実在したかどうかすら危ういが、記紀によれば在位は紀元前 97〜29 年 (弥生時代後期)、実在説によれば 3〜4 世紀 (古墳時代前期) との事である。
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竜田神社と書かれているが龍田大社の間違いであろう。[[w:龍田大社|龍田大社]]は奈良県生駒に位置する風の神を祀る神社で、斑鳩の龍田神社の本社でもある。崇神天皇の時〜の由来も本来かかるのは龍田大社であって内容がおかしい。
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== 四方山話 ==
 
== 四方山話 ==
* 風神神社の例祭に呼ばれた折に宮司さんに勧められて神社裏の滝で打たれたが冷たくて参った、と龍田大社の宮司さんに聞いた。
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* 風神神社の例祭に呼ばれた折に宮司さんに勧められて神社裏の滝で打たれたが冷たくて参った、と龍田大社で宮司さんに聞いた。
  
 
== 参照 ==
 
== 参照 ==
* [[風神神社/文献散策]]
 
 
* [[風神神社参道]]
 
* [[風神神社参道]]
 
* [[燈籠場 (真原)]]
 
* [[燈籠場 (真原)]]

2009年7月1日 (水) 22:34時点における版

神社仏閣
風神神社
風神神社
所在地岐阜県中津川市阿木字川入5740-1
位置N35:22:57.26, E137:30:04.60[MAP] (標高740m)
祭神天御柱命(アメノミハシラノミコト), 国御柱命(クニノミハシラノミコト)
例祭毎年8月28日〜9月1日 (8月31日大祭)
交通国道363号から真原農免道、燈籠場より林道を上る

風神神社(かざがみじんじゃ)阿木川の上流に位置する神社。天候や災害を司る風の神と風窟(かざあな) を祀っている。

立春から数えて二百十日(にひゃくとおか)は台風が来やすい日と言われ、古くから農林業を営む人々の厄日とされている。現在の風神神社ではおよそ二百十日の前日である毎年8月31日に風鎮祭が行われている。

目次

沿革

風窟が祀られ始めた時期は分かっていない。阿木川上流の山々が古くは行事岳と呼ばれて長楽寺龍泉寺修行僧の修験の場とされていた事から、長楽寺・龍泉寺の隆盛期である平安から戦国の頃には霊場と祀られていたものであろう。由緒にあるように昔は女人禁制だったという事も修験との関わりを示している。

  • 1618年 (元和4年/江戸初期) 6月再建。奈良生駒の龍田大社より天御柱命 (級長津彦命(シナツヒコノミコト)/男神)、国御柱命 (級長都姫命(シナツヒメノミコト)/女神) 勧請。
  • 1959年 (昭和34年) 9月26日、三河方面で伊勢湾台風の時に風神神社を参拝した人々の家だけが被災を免れたという事から霊験が広まる。
  • 1983年 (昭和58年) 9.28災害で神社横の沢が氾濫。社殿が倒壊し、参道の一部も崩落・通行不能。

昭和50年代から毎年の例祭時には龍田大社から宮司さんを招いている。

由緒

当社は天御柱命、又の御名は級長津彦長津姫命と申し奉る伊邪那岐命の御子にして尊き大神を祀る社なり。其の大神は宇宙間の空気を主宰し給えば人は更なり万物に至るまで生活し呼吸ある者は皆此の大神の恩徳に依らざるはなし。五穀を始め作りと作る物の豊凶は必ず風の好と不好とに関係するは人皆能く知る所なり。故に人たる物はよくこの大神の神徳を弁えて恩頼に奉謝し奉り崇めずんば有るべからず。

大神の祭始は人皇十代崇神天皇の御時天下の百姓の作物を始め草の片葉に至る迄一歳二歳にあらず幾歳凶作が続きし故、天皇多くの大凶の卜事を持つて恩心を占はせるに出る神の御心もなしと奉上し給いき。天皇御自身にて祈り給いき故を以て、天皇の大御夢に悟し給い天下百姓を傷害せる我御名は天御柱命国御柱命の御名を悟し我宮を竜田の立野に立て種々の幣帛を備え奉らば作りと作る物草の片葉に至る迄豊になし幸え奉らんと悟し奉りき故に宮柱太敷立て奉りき。今大和国生駒郡三郷町立野に鎮り座す大神、則ち是なり宮幣大社に列せられる本社は則ち其の御分霊を勧請し奉る所にしてその創建の時代は紀伝を失い判然せざれども蓋し中古よりのことなりと云い伝えり。

古へ女人此の山奥に川辺伝いに登り巨大なる厳石に大穴あり其の傍らへ来ると碧々たる白日も一瞬の間に黒雲起り風雨暴荒なる故直ちに帰りたる後十日程経て晴天となりたれば再び其の処へ登りたるに以前の如く風雨はげしく大地鳴動せしかば大いに驚き立帰りき。それより逢う人毎に其の不思議を語故に人々おそれて其の山中に入者一人もなし。

或る日何処とも知らず老翁来り其の話を聞き山中に入る事三十七日にして出て来りて告げて曰く斯処には級長津彦神安置せらる恭く尊崇せよ女人たるもの決して近傍へ行く可らずと云い何処ともなく立ち去るりたり故に今至るも女人の参詣を許さず。崇敬の徒其の年の豊作を祈請すれば果たして霊験灼然たることは人々の能く知る所なり故に人々競いて参詣するに至りしは元和年間よりの事なりしがそれ以降年々参詣者の数増加し終に現今の如くに至れり。

例祭 前夜祭 毎年八月三十日
大祭 八月三十一日
長命長久百穀豊穣の祈願し祈符授与す

付記 住時は女人禁制の土地なりしが現今は解禁せられ年とともに女人の参詣人も増加しつゝあり。

境内

拝殿

現在の拝殿は 1983年 (昭和58年) 頃に再建されたものである。裏手の大岩の上に本殿の祠が置かれている。

風窟

風窟 (風穴) とは拝殿裏手の本殿が置かれている大岩の隙間を指す。注連縄が張られ戸が取り付けられている。この風窟からは一年中風が吹き出ており、ここに風の神が住んでいると言われている。

昔からこの風窟に物を投げ込むとたちまち暴風雨に見舞われると言われている。また近代までは女人禁制であり女性は近づくことすら許されなかった。例祭時には悪戯者や女人が近寄らぬよう一晩中の見張りが付いていたと云われている。

近代になって女人禁制は解けたが、それでも風窟の周辺は瑞垣(みずがき)に囲われており近づくことが出来ない。

狛犬

現在の狛犬は 1980年 (昭和55年) に建てられたもの。寄付者芳名が取り付けられている。

拝殿表

拝殿裏

風神神社の裏手には風窟があり周りは杉に囲まれている。道はないが阿木川に降りることが出来る。トイレの近くは崩落しているので注意。これは9.28災害で崩落したものである。

由緒書き

境内に建てられている石碑の裏側には以下のように掘られている。

風神神社
本殿造營遷宮記念

御鎮座中津川市阿木字川入
御祭神天御柱命・國御柱命
別命 級長都彦神・級長都姫神
御神徳風難防護・延命長壽
例大祭八月三十一日
二百十日祭九月十日

御祭神は宇宙間の大気を主宰し給ふ神様で 元和四年六月 大和國龍田大社より御分霊を勧請す 江戸時代より風災防除の守護神として 美濃、尾張、三河、信濃、遠州の各地に 特別な崇敬と信仰を集め来れり 戦後参拝者の中絶ありしも 伊勢湾台風以来再び往時を凌ぐ隆盛を見るに至りしは 霊験あらたかなる御神徳のしからしむる所なり

昭和四十五年以来駐車場の新設、籠堂の移築、玉垣、狛犬、石燈籠の建立、拝殿御屋根葺替、御神札頒布所の改築等御社頭の整備擴張を致し 昭和五十九年八月 七十年の歳月を経て 御本堂の再建造営を竣工し 遷宮大祭を齊行し奉る

氏子崇敬者各位の御奉賛を心から深謝申し上げて記念の碑を建つ

昭和五十九年八月二十六日

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資料撮影 09/06/14 [1]


文献

巖邑府誌

1751年 (宝暦元年/江戸中期) に編纂された巖邑府誌の風窟の項には以下のように記されている。

○真原の山に常に風が吹き出ている風窟(かざあな)がある。里人は暴風による農作物の被害を免れると云い、夏になると祭りを執り行う。またその風窟に石を投げる者が居ればたちまち暴風が起きその者も難に遭うと云う。多分に愚かな田舎者の言であろう。

最後の一言が余計だが、江戸時代中期には現在と同じ言い伝えがあり風鎮祭のような儀式も行われていたことが窺える。神や神社といった言葉が出て来ないのは、当時はまだ神社の様式になっておらず霊場のようなものだったのかも知れない。

日本歴史地名大系

日本歴史地名大系[1]には以下のように記述されている。

風神(かざかみ)神社は社蔵の風神神社由緒には、元和四年(一六一八)に再建とある。旧本尊の風天子像は長楽寺に安置され、阿木風神祭礼之図(阿木公民館蔵)には風神宮は長楽寺の奥院として描かれている。夏風三郎の祭日として二百十日・二百二十日の無事を祈願する。


風天は仏教における風の護法善神。風神神社と長楽寺が深く関係しており仏教や修験的な立場から発生した事が窺える。何時の時代に別れたものかは分からないが、少なくとも明治の神仏分離には神社となっていただろう。

夏風三郎が何を示すかは不明。

郷土資料辞典

郷土資料辞典[2]風神神社の項には以下のように記述されている。

… 崇神天皇の時、凶作がつづいたので、風の神に祈り、大和の竜田神社から勧請して創建したと伝えられる古社である。…
[祭神] 天御柱命・国御柱命

崇神天皇(すじんてんのう)は記紀に記されている第十代天皇。この代では実在したかどうかすら危ういが、記紀によれば在位は紀元前 97〜29 年 (弥生時代後期)、実在説によれば 3〜4 世紀 (古墳時代前期) との事である。

竜田神社と書かれているが龍田大社の間違いであろう。龍田大社は奈良県生駒に位置する風の神を祀る神社で、斑鳩の龍田神社の本社でもある。崇神天皇の時〜の由来も本来かかるのは龍田大社であって内容がおかしい。

  1. ^ 日本歴史地名大系 第二一巻 岐阜の地名, 所三男, 1993年(平成5年), 平凡社
  2. ^ ふるさとの文化遺産 郷土資料辞典㉑ 岐阜県, 大迫忍(発)/齋藤建夫(編), 1997年(平成9年), 株式会社人文社

四方山話

  • 風神神社の例祭に呼ばれた折に宮司さんに勧められて神社裏の滝で打たれたが冷たくて参った、と龍田大社で宮司さんに聞いた。

参照

外部リンク

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