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鷹見家 - 安岐郷誌

鷹見家

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[[File:A portrait of Takami Senseki by Watanabe Kazan.jpg|thumb|140px|鷹見泉石像]]
 
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鷹見姓は三河を発祥としている。現在の愛知県豊田市上高町古白に'''鷹見城'''<map name="鷹見城跡" lat="35.117771" lon="137.226917"/>という城墟があり、{{年号|1431}} 鷹見三郎久吉という者が守っていたといわれている。この地域には鷹見岩<map name="鷹見岩" lat="35.120788" lon="137.224722"/>、上鷹見小学校などの遺存地名が残っており古く鷹見氏の庶族が住んでいた場所と思われる。
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{{ruby|'''広岡鷹見家'''|ひろおかたかみけ}}は岐阜県中津川市阿木の[[広岡]]地域を中心に広がっている家系である。
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==鷹見姓==
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鷹見姓は三河を発祥としている。現在の愛知県豊田市上高町古白に'''鷹見城'''<map name="鷹見城跡" lat="35.117771" lon="137.226917"/>という城墟があり、{{年号|1431}} 鷹見三郎久吉という者が守っていたといわれている<ref>この地域には鷹見岩<map name="鷹見岩" lat="35.120788" lon="137.224722"/>、上鷹見小学校などの遺存地名が残っており古く鷹見氏の庶族が住んでいた場所と思われる</ref>。
  
 
江戸時代には三河国[[w:田原藩|田原藩]] {{note|(愛知県東部)}}、下総国[[w:古河藩|古河藩]] {{note|(茨城県古川市)}} などの家老や学者に鷹見の姓が見られる。蘭学者で古河藩家老の[[w:鷹見泉石|鷹見泉石]]像 ([[w:渡辺崋山|渡辺崋山]]画/国宝) は日本画に洋画の手法が加えられた傑作として有名である。<strong>姓氏家系大辭典</strong><ref><strong>姓氏家系大辭典</strong>, <i>太田亮</i>, 昭和十八年, 磯部甲陽堂</ref>には鷹見正長とその孫[http://kotobank.jp/word/%E9%B7%B9%E8%A6%8B%E6%98%9F%E7%9A%90 鷹見星皐] (共に江戸時代中期から後期の三河国[[w:田原藩|田原藩]]の学者) について書かれている。星皐は家老である。
 
江戸時代には三河国[[w:田原藩|田原藩]] {{note|(愛知県東部)}}、下総国[[w:古河藩|古河藩]] {{note|(茨城県古川市)}} などの家老や学者に鷹見の姓が見られる。蘭学者で古河藩家老の[[w:鷹見泉石|鷹見泉石]]像 ([[w:渡辺崋山|渡辺崋山]]画/国宝) は日本画に洋画の手法が加えられた傑作として有名である。<strong>姓氏家系大辭典</strong><ref><strong>姓氏家系大辭典</strong>, <i>太田亮</i>, 昭和十八年, 磯部甲陽堂</ref>には鷹見正長とその孫[http://kotobank.jp/word/%E9%B7%B9%E8%A6%8B%E6%98%9F%E7%9A%90 鷹見星皐] (共に江戸時代中期から後期の三河国[[w:田原藩|田原藩]]の学者) について書かれている。星皐は家老である。
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==広岡鷹見家==
 
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{{ruby|'''広岡鷹見家'''|ひろおかたかみけ}}は阿木の[[広岡]]を中心に広がっている家系である。家紋は丸に違い鷹の羽。全国的に見ても鷹見の姓が集中しているのは広岡だけである。鷹見文書によれば元は[[青野]]村に住んでいたが、慶安の頃 (1648-1651年/江戸初期) に弥兵次という者が開拓のため[[広岡新田]]に移り住んだという。
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家紋は丸に違い鷹の羽。全国的に見ても鷹見の姓が集中しているのは広岡だけである。鷹見文書によれば元は[[青野]]村に住んでいたが、慶安の頃 {{note|(1648-1651年/江戸初期)}} に弥兵次という者が開拓のため[[広岡新田]]に移り住んだという。
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広岡鷹見家の多くは岩村[[浄光寺]]の檀家で[[w:真宗大谷派|真宗]] (一向宗) である。浄光寺は {{年号|1563}} [[w:三河一向一揆|三河一向一揆]]の折に上宮寺に付いた内田氏の子が上野国 {{note|(群馬県)}} で開山し、{{年号|1601}} [[松平家乗]]の移封に付いて岩村に移ったものである<ref>[[巖邑府誌/城府#浄光寺|巖邑府誌]]</ref>。
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これらのことから、三河で真宗に帰属し一揆に参加した鷹見氏の傍系が国を追われて青野にたどり着き (その間の70年ほど歴史不明) 浄光寺の檀家となったのが広岡鷹見家の祖と考えられている。
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===曹洞宗派===
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広岡鷹見家の中でも何件かは[[萬嶽寺]] (曹洞宗) の檀家である。分家を調べてみるとある家以降の分家が萬嶽寺であり、さらに調べるとその時期に女が家を分けられているという。この事から出戻り (離婚) の女が居いて勘当され家も寺も分けられて萬嶽寺に入ったのではないかと憶測されている<ref>この女の家は[[倶楽部 (清水)|清水の倶楽部]]より110mほど下<map name="" lat="35.404767度、東経137.491931"/>の三叉路の所にあったそうである。</ref>。
  
広岡鷹見家の多くは岩村の浄光寺 ([[w:真宗大谷派|真宗大谷派]]) の檀家である。[[巖邑府誌/城府#浄光寺|巖邑府誌]]によれば、浄光寺は {{年号|1563}} [[w:三河一向一揆|三河一向一揆]] の折に上宮寺に付いた内田氏の子が上州で開山し、{{年号|1601}} の松平氏転封に付いて岩村に移ったものと書かれている。つまり三河で真宗に帰属し一揆に参加した鷹見氏の傍系が国を追われて青野にたどり着き (その間の70年ほど歴史不明) 浄光寺の檀家となったと考えられている。
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ただし萬嶽寺を檀家とする全ての家がその分家という訳でもなく、萬嶽寺が開山した時にそちらへ移したのではないかだとか、家に迎えた婿や嫁に合わせ変わったのではないかだとか、様々な憶測を交えつつ謎とされている。
  
 
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2009年8月24日 (月) 23:17時点における版

広岡鷹見家(ひろおかたかみけ)は岐阜県中津川市阿木の広岡地域を中心に広がっている家系である。

目次

鷹見姓

鷹見姓は三河を発祥としている。現在の愛知県豊田市上高町古白に鷹見城[MAP]という城墟があり、1431年 (永享3年/室町) 鷹見三郎久吉という者が守っていたといわれている[1]

江戸時代には三河国田原藩 (愛知県東部)、下総国古河藩 (茨城県古川市) などの家老や学者に鷹見の姓が見られる。蘭学者で古河藩家老の鷹見泉石像 (渡辺崋山画/国宝) は日本画に洋画の手法が加えられた傑作として有名である。姓氏家系大辭典[2]には鷹見正長とその孫鷹見星皐 (共に江戸時代中期から後期の三河国田原藩の学者) について書かれている。星皐は家老である。

鷹見 タカミ 前後數條參照。田原藩の家老に此の氏あり、もと三河より起る。鷹見正長 (爽鳩)、その孫星皐等、學名高し。又攝津國兵庫の名族に存す、繪屋と號す。祖先は大西と云ふ武士にて、筑前黑田侯の本陣たりき。内、爽鳩は、もと石河氏、同藩鷹見定重の養子となりしなりと。

広岡鷹見家

ファイル:Maru chigai taka.svg
丸に違い鷹の羽

家紋は丸に違い鷹の羽。全国的に見ても鷹見の姓が集中しているのは広岡だけである。鷹見文書によれば元は青野村に住んでいたが、慶安の頃 (1648-1651年/江戸初期) に弥兵次という者が開拓のため広岡新田に移り住んだという。

真宗派

広岡鷹見家の多くは岩村浄光寺の檀家で真宗 (一向宗) である。浄光寺は 1563年 (永禄6年/戦国) 三河一向一揆の折に上宮寺に付いた内田氏の子が上野国 (群馬県) で開山し、1601年 (慶長6年/安土桃山) 松平家乗の移封に付いて岩村に移ったものである[3]

これらのことから、三河で真宗に帰属し一揆に参加した鷹見氏の傍系が国を追われて青野にたどり着き (その間の70年ほど歴史不明) 浄光寺の檀家となったのが広岡鷹見家の祖と考えられている。

曹洞宗派

広岡鷹見家の中でも何件かは萬嶽寺 (曹洞宗) の檀家である。分家を調べてみるとある家以降の分家が萬嶽寺であり、さらに調べるとその時期に女が家を分けられているという。この事から出戻り (離婚) の女が居いて勘当され家も寺も分けられて萬嶽寺に入ったのではないかと憶測されている[4]

ただし萬嶽寺を檀家とする全ての家がその分家という訳でもなく、萬嶽寺が開山した時にそちらへ移したのではないかだとか、家に迎えた婿や嫁に合わせ変わったのではないかだとか、様々な憶測を交えつつ謎とされている。

  1. ^ この地域には鷹見岩[MAP]、上鷹見小学校などの遺存地名が残っており古く鷹見氏の庶族が住んでいた場所と思われる
  2. ^ 姓氏家系大辭典, 太田亮, 昭和十八年, 磯部甲陽堂
  3. ^ 巖邑府誌
  4. ^ この女の家は清水の倶楽部より110mほど下[MAP]の三叉路の所にあったそうである。

四方山話

  • 「豊田の中世城館 愛知県豊田市内中世城館跡調査報告」という本に鷹見城の事が載っているという。豊田市の図書館にあるだろうか。

外部リンク

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