龍泉寺跡

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(碑文の解説)
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== 碑文 ==
 
== 碑文 ==
一部判読不能となっているが、龍泉寺と山祇神社の石碑には以下のように彫られている。
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龍泉寺・山祇神社の石碑には以下のように彫られている (一部判読不能)。
  
 
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'''旧跡 龍泉寺 山祇神社'''<br/>龍泉寺は浦陀山と号し文亀年中の創建と伝えられ馬頭観音を本尊とし天台宗に属す。天正二年武田勢の兵火により僧堂悉く灰燼に帰したが本尊は難を逃れ後に萬嶽寺へ移祀され昭和四十四年岐阜県指定文化財とさる。山祇神社は祭神に大山祇命を奉斉し龍泉寺及び近隣山林の守護神として祀られ同寺焼失後境内境外山林に同神社所属の官有地となっていたが、明治四十四年一部を残し民間に拂下げられ同神社は昭和九年村社血洗神社へ遷座合祀された。昭和十七年松下開発株式会社並に株式会社大地〜此の地域〜当たり両社の協力により〜拝を永久に保存し古暦を偲び碑を建てる。
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'''旧跡 龍泉寺 山祇神社'''<br/>龍泉寺は浦陀山と号し文亀年中の創建と伝えられ馬頭観音を本尊とし天台宗に属す。天正二年武田勢の兵火により僧堂悉く灰燼に帰したが本尊は難を逃れ後に萬嶽寺へ移祀され昭和四十四年岐阜県指定文化財とさる。山祇神社は祭神に大山祇命を奉斉し龍泉寺及び近隣山林の守護神として祀られ同寺焼失後境内境外山林に同神社所属の官有地となっていたが、明治四十四年一部を残し民間に拂下げられ同神社は昭和九年村社血洗神社へ遷座合祀された。昭和十七年松下開発株式会社並に株式会社大地…此の地域…当たり両社の協力により…拝を永久に保存し古暦を偲び碑を建てる。
 
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<div style="text-align:right;">昭和四十七年五月吉日 山祇神社氏子一同</div>
 
<div style="text-align:right;">昭和四十七年五月吉日 山祇神社氏子一同</div>
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浦陀山は浦陀落とも言い、観音様が浄土される山。
 
浦陀山は浦陀落とも言い、観音様が浄土される山。
  
1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、戦国時代のまっただ中という時代に建立された。現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか。天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に武田勝頼が入城した年。この時勝頼は千旦林城や阿寺城などの遠山支城を落とし、周辺の神社仏閣を手当たり次第に焼き払っている。
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1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。武装化した天台宗が全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山というロケーションから、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。
  
ここには書かれていないが焼失を免れたご本尊の馬頭観世音菩薩は後に建てられた観音堂に祀られ、今は萬嶽寺に納められている。また近代に入って領地も売られ大山祇神も[[血洗神社]]に遷座し、現在は正に「もう誰もいない」跡地のみが残っている。
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天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に[[w:武田勝頼|武田勝頼]]が入城した年。この時勝頼はまだ遠山勢の手にあった遠山十八子城を落とし、周辺の神社仏閣などを手当たり次第に焼き払ったと伝えられている。
  
龍泉寺石碑の右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によれば {{年号|1978}} に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。
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向かって右は馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは {{年号|1978}} に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。
  
 
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<div>'''碑文'''<br/>昭和四十六年頃此の地方一帯は開発造成され旧龍泉寺跡 (山祇神社所有地) も売却処分する事となり西尾鍚雄氏は当時氏子総代会長として補償交渉に当られました。生前氏は往時を偲び同寺本尊馬頭観世音の建碑を望んで居られたが昭和五十二年七月志し成らずして不帰の人となられました。遺言により金壱拾萬圓也を寄進せられ昭和五十三年五月三日之を建立す。氏子一同</div>
 
<div>'''碑文'''<br/>昭和四十六年頃此の地方一帯は開発造成され旧龍泉寺跡 (山祇神社所有地) も売却処分する事となり西尾鍚雄氏は当時氏子総代会長として補償交渉に当られました。生前氏は往時を偲び同寺本尊馬頭観世音の建碑を望んで居られたが昭和五十二年七月志し成らずして不帰の人となられました。遺言により金壱拾萬圓也を寄進せられ昭和五十三年五月三日之を建立す。氏子一同</div>
 
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ここには書かれていないが焼失を免れたご本尊の馬頭観世音菩薩は後に建てられた観音堂に祀られ、今は萬嶽寺に納められている。また近代に入って領地も売られ大山祇神も[[血洗神社]]に遷座し、現在は正に「もう誰もいない」跡地のみが残っている。-->
  
 
== 文献 ==
 
== 文献 ==

2009年5月28日 (木) 10:22時点における版

浦陀山龍泉寺(うらださんりゅうせんじ)は室町時代に建立され、武田と遠山の争いに巻き込まれて焼失した天台宗の寺院。焼失を免れた寄木造りの馬頭観世音菩薩 (岐阜県重要文化財) は、江戸時代に再建された観音堂に祀られたが、現在は「根ノ上観音」として萬嶽寺が管理している。現在の龍泉寺跡には石碑と観音堂の遺構のみが残っている。

神社仏閣
{{{名称}}}
所在地岐阜県中津川市阿木字竜泉寺
位置[MAP] (868m)
宗派天台宗
本尊馬頭観世音菩薩 (萬嶽寺所蔵/岐阜県指定文化財)
祭神大山祇神(オオヤマツミノカミ) (山祇神社/血洗神社へ遷座)
遺構馬頭観音堂礎石、碑石
交通国道363号線の頂点から根ノ上高原へ向かう市道途中の右側。

目次

風景

碑文

龍泉寺・山祇神社の石碑には以下のように彫られている (一部判読不能)。

旧跡 龍泉寺 山祇神社
龍泉寺は浦陀山と号し文亀年中の創建と伝えられ馬頭観音を本尊とし天台宗に属す。天正二年武田勢の兵火により僧堂悉く灰燼に帰したが本尊は難を逃れ後に萬嶽寺へ移祀され昭和四十四年岐阜県指定文化財とさる。山祇神社は祭神に大山祇命を奉斉し龍泉寺及び近隣山林の守護神として祀られ同寺焼失後境内境外山林に同神社所属の官有地となっていたが、明治四十四年一部を残し民間に拂下げられ同神社は昭和九年村社血洗神社へ遷座合祀された。昭和十七年松下開発株式会社並に株式会社大地…此の地域…当たり両社の協力により…拝を永久に保存し古暦を偲び碑を建てる。

昭和四十七年五月吉日 山祇神社氏子一同
龍泉寺 碑文01.jpg
資料撮影 09/02/21 [1]

浦陀山は浦陀落とも言い、観音様が浄土される山。

1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。武装化した天台宗が全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山というロケーションから、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。

天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に武田勝頼が入城した年。この時勝頼はまだ遠山勢の手にあった遠山十八子城を落とし、周辺の神社仏閣などを手当たり次第に焼き払ったと伝えられている。

向かって右は馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは 1978年 (昭和53年) に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。

碑文
昭和四十六年頃此の地方一帯は開発造成され旧龍泉寺跡 (山祇神社所有地) も売却処分する事となり西尾鍚雄氏は当時氏子総代会長として補償交渉に当られました。生前氏は往時を偲び同寺本尊馬頭観世音の建碑を望んで居られたが昭和五十二年七月志し成らずして不帰の人となられました。遺言により金壱拾萬圓也を寄進せられ昭和五十三年五月三日之を建立す。氏子一同
龍泉寺 碑文02.jpg
資料撮影 09/02/21 [1]


文献

= 巖邑府誌

角川日本地名大辞典

伝承と四方山話

  • 阿木の里人には武田軍の焼き討ちにあった寺と伝わっている。
  • 寺領は手賀野から千旦林付近と伝わっている。
  • 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ背筋の寒くなる場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果てている。

外部リンク

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