龍泉寺跡

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(巖邑府誌)
(角川日本地名大辞典)
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=== 角川日本地名大辞典 ===
 
=== 角川日本地名大辞典 ===
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日本地名大辞典<ref><b>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</b>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>の''阿木''の項には以下の記述がある。
  
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竜泉寺山に寛永17年より馬頭観音をまつり、
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巖邑府誌と同様に寛永 17 年に馬頭観音が祀られたと書かれている。ただし武田の軍勢による焼き討ちには触れられていない。龍泉寺山とは保古山を指しているのだろうか? 現在の龍泉寺跡は山と言うより峠か尾根といったところである。
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また同書中津川市の''寺社と信仰''の項には以下のように書かれている。
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阿木竜泉寺跡にあった馬頭観音堂は、初午の日に馬を引き参詣する人を集めたが、現在は礎跡を残すのみである。
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この記述からは里人にとって初午参りが馬や牛を祭るものであったこと、また観音堂が建立された江戸時代初期の頃には龍泉寺まで馬を連れて行けるほどの道があったことが窺える。
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1572年11月14日、武田信玄の家臣 秋山信友により岩村城が開城する。地元で有名な女城主 (おつやの方) の居た時代である。
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その後にも織田軍との交戦はあったが龍泉寺に戦火が及ぶ事はなかった。またこの時点では明知城や阿寺城などの
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支城もまだ武田方に落ちてはいなかった。
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1573年4月12日、武田信玄が病死して四男勝頼が家督を継ぐ。信玄死去で落ちていた家臣の士気を上げ、信長への圧力を
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かける目的で、1574年1月27日、家臣秋山信友の居る岩村城に向かう。そして同年2月6日、明知城が武田の手に落ちる。
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さて、龍泉寺の焼き討ちについては月や日がはっきりとしないため、勝頼が岩村城に向かう途中なのか、
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到着後に軍を仕切り直したのか、明知城落城の前なのか後なのかなどは分からない。
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ただ同時期に手賀野や千旦林の支城も陥落していることから、その時の遠征だったと思われる。
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同時に勝頼の軍勢は中津川・恵那・岩村周辺の神社仏閣を片っ端から焼き討ちにしている。
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これに伴い里人への刹略行為も行われたのであろう。
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しかしいくら延暦寺がバックに居るとはいえ寺領を確保して寺を運営するにはそれなりに遠山氏の協力があったのだろう。
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もしかしたら協定によって遠山方の軍事拠点扱いであり、阿照や千旦林の支城の主戦力が龍泉寺まで引いただとか、
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敗走兵が逃げ込んだと言うような事があったのかも知れない。
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== 伝承と四方山話 ==
 
== 伝承と四方山話 ==

2009年5月31日 (日) 18:46時点における版

神社仏閣
龍泉寺跡
所在地岐阜県中津川市阿木字竜泉寺
位置北緯35度26分06秒060
東経137度30分17秒038[MAP] (標高868m)
宗派天台宗
本尊馬頭観世音菩薩 (萬嶽寺所蔵/岐阜県指定文化財)
祭神大山祇神(オオヤマツミノカミ) (山祇神社/血洗神社へ遷座)
遺構馬頭観音堂礎石、碑石
交通国道363号線の頂点から根ノ上高原へ向かう市道途中の右側。

補陀山龍泉寺(ふださんりゅうせんじ)は室町時代に建立され戦国の世に焼失した天台宗の寺院。兵火を免れた寄木造りの馬頭観世音菩薩は江戸時代に再建された観音堂に祀られていたが、現在は根ノ上観音 (岐阜県重要文化財) として萬嶽寺が管理している。

現在、保古山の別荘地にある龍泉寺跡には石碑と観音堂の遺構のみが残っている。

目次

風景

碑文

龍泉寺・山祇神社の石碑には以下のように彫られている (一部判読不能)。

旧跡 龍泉寺 山祇神社
龍泉寺は浦陀山と号し文亀年中の創建と伝えられ馬頭観音を本尊とし天台宗に属す。天正二年武田勢の兵火により僧堂悉く灰燼に帰したが本尊は難を逃れ後に萬嶽寺へ移祀され昭和四十四年岐阜県指定文化財とさる。山祇神社は祭神に大山祇命を奉斉し龍泉寺及び近隣山林の守護神として祀られ同寺焼失後境内境外山林に同神社所属の官有地となっていたが、明治四十四年一部を残し民間に拂下げられ同神社は昭和九年村社血洗神社へ遷座合祀された。昭和十七年松下開発株式会社並に株式会社大地…此の地域…当たり両社の協力により…拝を永久に保存し古暦を偲び碑を建てる。

昭和四十七年五月吉日 山祇神社氏子一同
龍泉寺 碑文01.jpg
資料撮影 09/02/21 [1]

浦陀は一般には通じず、後述の巖邑府誌からも補陀(ふだ)の誤字か当て字と考えられる。補陀山は補陀落とも呼ばれ、南海にあり観音が浄土する山を意味している。

1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、つまり龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。

天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に武田勝頼が入城した年。この時勝頼はまだ遠山勢の手にあった遠山十八子城を全て落とし、周辺の神社仏閣などを手当たり次第に焼き払ったと伝えられている。

向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは 1978年 (昭和53年) に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。

碑文
昭和四十六年頃此の地方一帯は開発造成され旧龍泉寺跡 (山祇神社所有地) も売却処分する事となり西尾鍚雄氏は当時氏子総代会長として補償交渉に当られました。生前氏は往時を偲び同寺本尊馬頭観世音の建碑を望んで居られたが昭和五十二年七月志し成らずして不帰の人となられました。遺言により金壱拾萬圓也を寄進せられ昭和五十三年五月三日之を建立す。氏子一同
龍泉寺 碑文02.jpg
資料撮影 09/02/21 [1]


文献散策

巖邑府誌

巖邑府誌の龍泉寺について。

龍泉寺は行事岳と呼ばれる村の東の高山の北山の上にある。補陀山龍泉寺という號の一草堂に観音像を安置しており仲春の初午に祭っている。住職は居らず現在は清宝院の尼が仮で寺務を執り行っている。この草堂は寛永 17 年に岩村藩主丹羽氏信侯が再建したものである。草堂の傍らには神祠があり、また血洗池と呼ばれる池がある。

阿木の東の高山で龍泉寺跡の南とは天狗森山橋ヶ谷山を指しているものと思われる。俗に阿木山と呼ばれる山々は古くは行事岳と呼ばれていたことが分かる。

仲春(ちゅうしゅん)とは陰暦の 2 月。初午(はつうま)は旧暦 2 月の最初の午日。龍泉寺焼き討ちより 66 年後の 1640年 (寛永17年/江戸初期) には焼失を免れた馬頭観音菩薩が再び祀られ、岩村府誌が書かれた 1751年 (宝暦元年/江戸中期) にもまだ観音堂が建っていた。寛永 17 年は岩村城主丹羽氏信(にわうじのぶ)によって賽之神神社や三森神社の祠が建てられている事から、この年は藩内で神社仏閣整備が行われたものと思われる。

清宝院がどこであるかは不明。

竜泉寺の西の麓には広く原野があり、その土地はやせている。ここの人の住む村は大野という名である (現在は大野と広阜(ひろおか)の二地域となっている)。この地は阿木の東境に接しており全て阿木の部落である。

巖邑府誌が書かれた時代には大野はやせた土地であったという。文脈から現在の広岡が大野より後に開拓された事が読み取れる。

北野大智寺[MAP]の桃翁が東濃大野大禅寺の南陔兄に贈った詩がある。

山中冝棲白雲身
露井秋風憶古人
寺下灘声居リテ
安禅応ン三龍神

この序によれば東濃大野村の吉祥山大禅寺とは峰翁祖一(ほうおうそいつ)禅師 開山の道場である (祖一については大円寺記参照)。山や川がこの傍らを巡り、何より灘声(たんせい) (急流の響き) がやかましい。あるとき一人の老翁が説法を聞きに訪れた折りに師は灘声が疎ましいと告げた。翁は私の力でこれを移して見せようと言った。師はにわかには信じられなかったのだが、しばらくすると雷鳴が轟き始め翁は竜となり井戸に消えた。その中から雲がわき起こり大雨が三日続いて山河は水で満たされ、そしてその急流は三里 (1.6km) ほど遠くに移動したと云う。この事から祠を建てて竜を祭り、昔から水無明神と呼ばれている。今でも大野村に井戸がないのはこのためだと。

桃翁も南陔もいつの人間か分からないが、思うに勝国以前の人物であろう。この伝承は竜泉と称するのに十分な根拠である。多分に水無明神は山頂の神祠、竜が消えた露天の井戸はその傍らの池であろう。大野には井戸が無く村民が皆川の水を酌んでいるのは今なおそのようである。

現在の大野に寺跡が存在するという話は存在しない。巖邑府誌/飯妻の項に書かれているように、吉祥山大禅寺とは現在の禅林寺の前にあった飯沼のお寺なのかもしれない。

龍泉寺跡の観音堂に馬頭観音像と一緒に祀られていたのは山の神 (大山祇神) である。このため龍を祀った水無明神という件もよく分からない。当時はそのような神が祀られていたのか、現在の字川上 7834 に水神神社[MAP]とあるのがこれを指しているのかもしれない。

また大野なら掘れば水が出ると思うのだが井戸はなかったと書かれている。

角川日本地名大辞典

日本地名大辞典[1]阿木の項には以下の記述がある。

竜泉寺山に寛永17年より馬頭観音をまつり、

巖邑府誌と同様に寛永 17 年に馬頭観音が祀られたと書かれている。ただし武田の軍勢による焼き討ちには触れられていない。龍泉寺山とは保古山を指しているのだろうか? 現在の龍泉寺跡は山と言うより峠か尾根といったところである。

また同書中津川市の寺社と信仰の項には以下のように書かれている。

阿木竜泉寺跡にあった馬頭観音堂は、初午の日に馬を引き参詣する人を集めたが、現在は礎跡を残すのみである。

この記述からは里人にとって初午参りが馬や牛を祭るものであったこと、また観音堂が建立された江戸時代初期の頃には龍泉寺まで馬を連れて行けるほどの道があったことが窺える。


伝承と四方山話

  • 阿木の里人には武田軍の焼き討ちにあった寺と伝わっている。
  • 寺領は手賀野から千旦林付近と伝わっている。
  • 龍泉寺の山門は焼き討ちに遭う前にふもとに移された。
  • 天台宗が武装勢力として全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山というロケーションから、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。
  • 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ背筋の寒くなる場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果てている。

外部リンク

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