龍泉寺跡
提供:安岐郷誌
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+ | 現在、保古山の別荘地にある龍泉寺跡には石碑と観音堂の遺構のみが残っている。 | ||
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向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは {{年号|1978}} に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。 | 向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは {{年号|1978}} に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。 | ||
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ここには書かれていないが焼失を免れたご本尊の馬頭観世音菩薩は後に建てられた観音堂に祀られ、今は萬嶽寺に納められている。また近代に入って領地も売られ大山祇神も[[血洗神社]]に遷座し、現在は正に「もう誰もいない」跡地のみが残っている。--> | ここには書かれていないが焼失を免れたご本尊の馬頭観世音菩薩は後に建てられた観音堂に祀られ、今は萬嶽寺に納められている。また近代に入って領地も売られ大山祇神も[[血洗神社]]に遷座し、現在は正に「もう誰もいない」跡地のみが残っている。--> | ||
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=== 巖邑府誌 === | === 巖邑府誌 === | ||
=== 角川日本地名大辞典 === | === 角川日本地名大辞典 === | ||
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* 阿木の里人には武田軍の焼き討ちにあった寺と伝わっている。 | * 阿木の里人には武田軍の焼き討ちにあった寺と伝わっている。 | ||
* 寺領は手賀野から千旦林付近と伝わっている。 | * 寺領は手賀野から千旦林付近と伝わっている。 | ||
+ | * 龍泉寺の山門は焼き討ちに遭う前にふもとに移された。 | ||
+ | * 天台宗が武装勢力として全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山というロケーションから、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。 | ||
* 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ背筋の寒くなる場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果てている。 | * 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ背筋の寒くなる場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果てている。 | ||
2009年5月28日 (木) 13:33時点における版
神社仏閣 | |
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{{{名称}}} | |
所在地 | 岐阜県中津川市阿木字竜泉寺 |
位置 | (868m) |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 馬頭観世音菩薩 (萬嶽寺所蔵/岐阜県指定文化財) |
祭神 | |
遺構 | 馬頭観音堂礎石、碑石 |
交通 | 国道363号線の頂点から根ノ上高原へ向かう市道途中の右側。 |
現在、保古山の別荘地にある龍泉寺跡には石碑と観音堂の遺構のみが残っている。
目次 |
風景
碑文
龍泉寺・山祇神社の石碑には以下のように彫られている (一部判読不能)。
浦陀は
1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、つまり龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。
天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に武田勝頼が入城した年。この時勝頼はまだ遠山勢の手にあった遠山十八子城を全て落とし、周辺の神社仏閣などを手当たり次第に焼き払ったと伝えられている。
向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは 1978年 (昭和53年) に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。
文献散策
巖邑府誌
角川日本地名大辞典
伝承と四方山話
- 阿木の里人には武田軍の焼き討ちにあった寺と伝わっている。
- 寺領は手賀野から千旦林付近と伝わっている。
- 龍泉寺の山門は焼き討ちに遭う前にふもとに移された。
- 天台宗が武装勢力として全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山というロケーションから、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。
- 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ背筋の寒くなる場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果てている。
外部リンク
- 中津川市デジタルアーカイブ 木造馬頭観世音菩薩像