利用者:Torao/ノート/あぎ 昭和58年度

提供:安岐郷誌
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阿木公民館の冊子 「あぎ」昭和58年度版より成人教育事業の章をテキストに起こしたもの。

目次

九・二八水害の思い出

小栗 浩

九月二十三日午後より雨が降り始め、二十四、二十五、二十六、二十七、二十八と連日の雨天にて秋の取り入れも出来ず、何か悪い予感が…

十二時三十分頃、万岳寺住職と野内保母先生と三人で中津川市民病院へ、八屋砥西尾市のお見舞いに行き帰路各河川が増水し、三時頃帰宅四時頃雷が鳴り、土砂降りとなり川の水音が激しく聞え、五時半頃より家がしびれ、びりびりと音がする。

三十二年の水害と同じと思い、い亜族に川へ見に行くなと注意… 直ぐ足立幸博宅の裏より土砂搬入。田並宅へも土砂入りとの連絡あり。阿木支所へ水害の連絡・消防団の出動を依頼・道路へ悪水が流れて通行困難・牛舎の五頭が水の音に恐れ大きい息をして震えて居り、餌も食しない。

市岡勇宅では車で逃げる。佐々木隆宅の家の下まで土砂搬入の由、私宅も家族車で退避の準備をする。市岡武夫宅、佐々木光昭宅も牧野方面に避難。水害に安全な梅村吉弘宅へ寄る。消防団員が真原・松山の両溜池の決壊の恐れ有り退去せよ、との連絡で、中組鷹見純是宅へ。今井久家族も全員避難して居られローソクの燈りで夕食を馳走になり、午後九時頃雨が小降りになったので家に帰る。

電灯は付いていた。山津波の恐しさを二回経験し後世に伝えたい。三十二年の水害に消防団長の役職で苦労しましたが、今回は非常に楽と感じた。

土砂搬入面積 水田 三反歩 (皆無ニ反) 転作牧草地 五反歩余

九月二八日大雨の降った時の事

今井 里やう

九月二十八日一時頃より雨はだんだん降り出した。家の者は、皆用事に出て行き私一人が留守番でした。

午後一時半より雨は大きくなり、四時頃には水がだんだん増して来て、池の水は満たんになり家の土台の下まで流れ込んできました。

裏の大川の方でゴーゴー、キイキイと云う音。もの凄い雨が降り出し裏に出て見ると、ぼたからぼたまで水が流れている。見ているうちに大きなbたが、えみめが出来、下り出したので家に飛び込んだ。

電気は消えて真暗。隣に走りましたが、一人も見えず留守でした。

七時頃には水もへってきました。家の方では道がかけたり、ぼたぬけした位で大した事はありませんでしたが、家がつぶれたり土砂が入ったりした方は本当にお気の毒だと思います。

九・二八災害の思い出

加藤

昭和五十八年九月二十八日朝から雨降り、何時になってもやみそうもない。奥の山の方を見れば、真暗で止みそうもないと思っていました。午後になってから、ますます水が増して来た。

五時を過ぎた頃には何んとも云い様のない泥臭い匂いがして水はますます増えて来た。主人が仕事から帰る頃になっても雨が降り続いているので、私はこれからどんなになるかと思い、早めに夕飯の支度にかゝって、早く食事をすませ様として、主人を見に行くと下着のまゝで、一寸上の方の様子を見て来ると云って家から出たり入ったりしてうろうろしているので、〝早く着る物を出して出来るだけ多くさん着て仕度をしようよ〟と云っている間に水はますます増して、風も無いのにサッシの戸がガタガタと音がして、石がぶつかる度に床がぐらぐらして来たので、これは食事どころではない、川の水はすでに真黒になり大橋にぶつかり、もう少しで道路につきそうになって… 下の方を見れば数十米の水柱になり、始めての大水にはビックリ。これは大変な事になった。川には大きなコンクリートの固りがあったのに何もなく真っ平な水許りが上へ上へと波となって流れていた。

こんなに水が逆流する事は始めてのこと。このまゝ流れてはと思って、下着や着物の一枚でもと思っても表の方も近所の人達が騒ぎ出したので、何が何やら分からなくて… 主人は位牌を風呂敷に包んで何も持たずに車に入って早く早くとどなっている。

あちらこちらから電話で早く避難する様にと心配して下さるので、何も持たずに車で走ったが、途中まで行くと道路は車で一ぱい。誰もが先へ先へと後から車が突っ込んで来るので三叉路は一ぱいで後へも前にも行けず、止まったきり。その時、消防団の方が来て整理され、やっと出る事が出来ました。

翌日、車で廻って見て二度びっくり。山は抜け放題。大きな青木が川に横たわって川を堰き止めて廻りの田畑には土砂が入って、稲、野菜は全く物にならず、あわれと云うか話にならない状態になってしまっていたのです。

現在の阿木川

西尾 かね

今は静かに何事もなかったかの様に美しく澄み切った水が流れて居ります此の阿木川も、奥が深い為に長雨の時期とも成れば、山の谷合いが抜けたり、又何年か前に伐採された山が大雨の為にぬけて大洪水となり、何度ともなく田畑は勿論、民家及び尊い人命までも奪い去って行きました。

昭和十五年六月十七日の大洪水時は、長雨の上の大雨で山が抜け、谷間に堰き止められては、又一挙に押し流されて大洪水となりました。その日の午後、石の流れる音や又、山抜け、大洪水特有の何とも云えない臭いに川が気になり雨も小振りになりましたので、本田さんの裏道まで出て行きました。

数人の方々と一緒に阿木川の様子を見て驚きました。阿木橋も通行止に成り、波打つ様に増して来る水に見て居る間に、向側の石垣が崩れ始めました。誰云うともなく〝アッアッ〟と云うだけで次の言葉がありません。

その頃は三宅豆腐店の前当りから上の方へ畳や、家具を運ぶ方達の姿が見えて居りましたが、ものゝ十分ともたゝない内に、景山さんの家の土台当たりに水が冠り始め見る間に田本さんの家諸共にり込む様に水中へ消えてゆきました。

きっと向側の人達は大声で呼び合って見える事でしょうが、此方には只只、天まで轟けとばかりに唸る大洪水の音と、足の下迄、地面がしびれるだけで何も分かりませんでした。その時の様子が今も雨が降ると思い出されます。

昭和三十二年六月及び九月にも阿木川は大氾濫しました。向う岸の竹薮が流れ、川岸の民家・重要道路・阿木橋等も押し流されました。

こうして繰返し流れていた阿木川も、その後、護岸工事のお陰で、今は川巾も倍の広さとなり、去年九月二十八日の夕方の一雷と共に始まった大洪水も、此の阿木川は人命又民家にはお陰様で障りなく治りました。

又、夏にでもなれば子供等が、小魚を追って此の美しい川面で遊ぶ事でしょう。

一月二十五日


独り言を云うあまご 俗名(あめのうお)

竹山 鑒

美しいあまごが、小さな声でしゃべり出した。「三十二水と三十六水で、おれ達の仲間は全滅に近かった。僕の祖父母は、大勢の友達や兄弟と一緒に、川沿ひの親切な人に買はれて、養殖場からこの松沢川に放流せられたそうだ。そして、あまごの一族は釣人を楽しませる迄に成長した。

折りも折り、九・二八の集中豪雨がやって来た。こわいので砂をのんで、大岩の下のガマトに隠れた。そとの様子が心配だった。時間が経つに従って、物凄い音がした。大きな石が濁流と共に流れて来て地震と間違へる様な地響きが絶えない。

五・六時間は続いた。本当に恐ろしくて仕方がなかった。その内に雨が止んだ。地響きもしなくなった。数時間して夜が明けた。そっと外へ出て見たらあたりは、割合静かだが激しい災害にはビックリ仰天気を失いそうだった。

心臓の鼓動をこらへて、ひょいと向う岸を見ると流れた岸の上で人の話し声が聞こえて来たので、じっとして盗み聞きをした。親子の二人だった。

父 … 三十二水から三度目の災害だ。今度が一番ひどいね。昭和十年頃だったかなー松沢御料林の伐採が決った。これは大変、松沢川流域の住民は一斉に立ち上がった。連判状で吾等流域農民の水源林伐採は、用水枯渇の危険があり、そうなった場合は正に死活問題であるとて伐採取り消しの陳情を、あらゆる筋に依頼して猛運動をしたよ。そして有力なる権威者をたのんで陳情もした。そうこうする内に伐採取り消しの方向へと期待が持たれたが、他の力のために運動は不成功に終り、到頭大森林は見る見る内に裸山となってしまったよ。

子 … それで三十年間に三度もの大災害を起こした訳ですね。

父 … うん、そうだよ。

子 … その他の力とは一体どういう事ですか。

父 … それは云へない。云はれない。又聞くべきでないよ。

父は、のぼせ気味で…

父 … 集中豪雨で、裸山の急斜面と、人工造林が一所になって、大崩壊し鉄砲水となって下流の田畑や道路が決壊。土砂は大きな石と共に各所で氾濫。家屋の損害等、数えきれない大災害となってしまったね。水源地の大森林伐採の最悪の結果を見せつけられて仕舞ったね。

子 … これから大災害を防止するには、どうすればいいのかね。

父 … 堰堤の建設はすでに工事が始まっているらしいが、人工造林は今後国家で法律を作って調整する必要があるのでは無いかな。父は殊にそう思へてならないよ… と云うのはね… 雑木林は、山ぬけがしないでおるからだ。

話が途切れたと思ったら、子が僕を指差して〝お父さんあめのうをが居るよ〟と云ったので、すばやくガマトの中へ逃げこんだ。あわてたので大岩に頭をぶつけそうだった。

僕、陸へ上がれないので仕方がないが、災害に遭われた方にガマトの中から御見舞を申し上げたい気持ちで一ぱいだ。そして一日も早く復興する事を心から御祈りする。

あまご一族は全滅しても、元の清流になった頃には、きっと又養殖場から、どなたかゞ連れて来て下さるに違いない… その日を待つとしよう。

あっ一寸疲れたおとなしく休んだあとで一族の動静を探る事としよう。

あまごはそれから一言も口をきかなかった。

天保七申年凶作日記

小栗 浩

〓 一 三州足助騒動 一 上州高崎 〓 江相納置候事二候 然ル處去申年諸国ハ勿論御領分未穀至而乏敷 融通無之天明之凶作ニ無キ年柄ニ而致難渋候趣不快之至ニ思召 此度窮民江為御救御斎殿御発分而困窮之者江被下置候間 厚御趣意之趣能々小前江申聞無 甲乙日々割渡不及飢ニ様取斗難渋為矣可申候以上 〓 紋次郎様仕落ニ相成挿借未一件ハ差當リ御左太無御座候 〓 右之通日記明細ニ論シ不申候有増思出るニ任畧シ候以上 天保八丁酉歳 広岡新田庄屋 亀右衛門 組頭 治右衛門 同断 最左衛門 百姓代 助十郎

今井久助 扣

◎天保七申年凶作日記 (古文書) から書きましたが、解読が十分でない所もあると思いますが、天保の凶作の様子がわかると思います。このような凶作 (災害) で難儀をされていたことを伝えたいものです。

◎災害は忘れた頃にやって来ると言われていますので次頁より災害の年表を入れておきます。

槙平一件覚帳

文政元戌寅年三月
阿木村庄屋 兼三郎

文政元戌寅年阿木村小皿田与三右衛門槙平
辺之内御運上金百両差上御山頂載仕
切跡御新田ニ仕度旨御内意申上候哉其節
赤瀧ト申所ニ御金掘山御座候為御見分
郡奉行小林太郎兵衛様力丸貫一郎様
御代官石橋三郎兵衛様御手代様御下目付様
御越被成御帰リニ槙平辺御山御見分
被成度思召ニ而村役人共姫子谷迠罷出
可申様被仰聞候ニ付庄屋兼三郎組頭
次郎右衛門小皿田与三右衛門願候通
御運上差上御山ハ不被下置候尤御新田開発
申聞候得者金子五拾両御下ヶ被成
開発之差障リニ可相成場所ハ御山
御渡被戉候間依之御新田畑開発
致ス可キ旨被仰聞役人共一向心当リ無
御座旦ハ与馴山義ニ茂候之
依リニ茂風神〜川上江婦人入込候得者
風雨繁多哉殊ニ槙平辺ニ而笹
抔冬春ニハ一日ニ百負弐百負程モ
苅村方牛馬喰候間今〜代拂
跡々御新田ニ相成候ヘバ村方差支
ニ茂相成可申様申上候處風神〜
川上江婦人入込候而阿木村計リ差障リ
相成候可申事茂無し御座哉笹抔茂
他村等ニハ無御座候テ茂牛馬喰通リ
候哉神ハ外江祭リ替与申事モアリ
笹抔常々心当ニ致候哉勿論槙平
辺新田ニ切開候ハハ自然与水通リ
潤流候様ニ茂相成可申哉致世話候而ハ
如何哉委入割被仰聞奉恐入右之
段村方江申談為村願御願申上
願之通被仰付御請申上小皿田
与三右衛門福岡新田庄蔵両人ニ而致
世話雑木伐取紺屋灰焼御渡
山之内檜椹五ヶ年限リ伐取ニ而金高
弐拾両ト相究メ合両世話人江相渡夫〜
追々諸木伐拂為開発人ト先久保
原村周助木地師文左衛門五郎右衛門
菊右衛門利右衛門久佐衛門弥左衛門藤兵衛
源兵衛申者差入開発為致内喰ニ
者木地為仕出尤鎌鍬鍋釜諸家
財相渡其外ニ家壱軒之家俗共江

代銀三分ト相究為起夫々追々掘能ヶ
相成候ニ随イ或ハ弐分之場合モアリ或ハ
壱分五里ノ場所モアリ場所に依リテ
代相定為起申候

奉願口上覚

当村御山之内市郎平沢そんで越沢狸沢
踊沢大わる沢姫子谷迠本川境
水落ノ分為御運上金拾両ツツ十ヶ年ニ
百両差上諸木不残申請伐取伐跡
場所見合新田開発仕度奉願候地所
日請モ冝敷場所ニ而実入等モ可
仕候ト奉存候勿論開発場所ハ多分
御座候得共拾か年内ニ田畑拾町程モ
開発可仕候跡場所モ追々ニ起立申度
奉存候尤村方申談候處少モ故障無ク
御座候村繁昌之義ニ御座候間御見分
之故願通リ被 仰付被下置候ハバ難有
可奉存候以上

 寅六月廿二日

阿木村庄屋 助十
同断    兼三郎
同村組頭  清助
同断    弥兵衛
同断    彦兵衛
同断    次郎右衛門
同断    次左衛門
同百姓代  角左衛門
同断    市右衛門
同村世話人 与三右衛門

 石橋三郎兵衛様
 加藤定吉様
 内田助右衛門様

奉願上新田開発之事

阿木村御山之内姫子谷夏小屋大悪沢
槙平小わる沢大踊中之平狸沢そんで越沢
市郎平谷等日請等モ冝敷場所ニ新田
畑開発仕度奉願上候附テハ右開発
場所之内ニ有之候木品ハ勿論并田畑畔之
御山其所ニ寄日影或障リ等ニ相成候場所ハ
祐通拾間弐拾間通リモ頂戴仕リ伐申
度存旦又通筋之儀ハ馬道無
御座候而指支候ニ付今度目論見仕
都合冝敷所ヘ新道開可申与奉存候
併左様仕候而者最初夫々職人等
雇候ニ本人之金子差支候間何卒
金五拾両無利年延ニ拝借被 仰付
被下置候様奉願上候左様被成被下候得ハ
私共何分ニモ御引請申上前文願戴
仕リ候諸木ニテ夫々成合之小物等ニ
仕出シ右拝借金ニ差加ヘ夫ヲ以五ヶ年
之内先槙平之内ニ而田畑五丁開発
可仕候其時モ出情仕追々開発可仕候
得共五丁程八年限中是非開発仕
六ヶ年目ニハ御注進申上候御験地受可
申候萬ヶ一右五ヶ年之内ニ前文之
反畝程得開発不仕候ハバ其節拝借
金ニ壱割之利ヲ加ヘ元利共急度
返上納可仕候勿論諸事目論見之
委細ハ尚別紙帳仕様書ヲ以テ入御覧
可申候間願書面ニ御引合之上厚キ御
勘考ヲ以何卒奉願上候通リ被
仰付被下置候様仕度此段願之通被
仰付被下置候難バ有可奉存候以上

文政元戌寅年
    十月  世話人
        惣役人

内田初右衛門様
加藤定吉様
石橋三郎兵衛様

槙平新田諸入用願書覚

  1. 金壱分
    右ハ長楽寺ヘ地祭祈祷御礼
  2. 金弐両
    右ハ奥州者頼入飛脚賃
  3. 金壱両壱分銀五匁 但三間弐間半
    右ハ槙平新田場所御渡被成候節用小屋壱軒雑用
  4. 金四両三分
    右ハ槙平ヨリ川入江馬道賃銭半金ニ御座候
  5. 金壱両壱分 但一丁ニ付代七匁五分
    右ハ鍬拾丁鶴はし拾丁代銭ニ御座候
  6. 金四両 但小屋三軒分家財
    右ハ鍋釜家財諸道具敷物代
  7. 金弐分弐朱 但斧一丁ニ付代七匁五分 鉈一丁ニ付代五匁
    右ハ斧三丁鉈三丁新田開発入用
  8. 金四拾五両 但奥州者五人雇入壱人ニ一日ニ賃銀弐匁ヅツ
    右ハ三月ヨリ十月迠九ヶ月之賃銭
  9. 金六両三分弐朱 但樽壱本ニ付六貫目入
    右ハ味噌五拾本代銭
  10. 金壱両壱分 但塩壱俵ニ付代五百文

  11. 右ハ新田開発入用
  12. 金三拾両三分 但拾両ニ付米三拾四俵値段
    此米百拾四俵三斗

    三拾三俵三斗 奥州五人扶持米也 但一日ニ二升持扶
    八拾壱俵 信州者拾弐人扶持米也 一日ニ七合五勺ヅツ

  〆金百壱両銀五匁
右之通来一ヶ年分入用ニ御座候依之無
利年延ニ拝借金五拾両此節拝借
仕度奉願候残金之儀ハ来年中
彼是手段仕候雇銭等相渡申候
跡年之儀ハ工夫ヲ以テ年限中願書面
之通急度開発仕リ候以上 御上江御厄介
ヶ間敷儀御願申上間敷候願之通被
仰付被下度候ハバ難有奉存候以上

 文政元戌寅年
     十月 世話人
        惣役人

内田初右衛門様
加藤定吉様
石橋三郎兵衛様

新田開発仕仰 〓之書

  1. 居村御山之内姫子谷夏小屋大悪沢
    槙平小悪沢大踊中野平狸沢そんで越沢
    市郎平谷之内ニ而新田畑開発仕度段
    奉願上候處如願被 仰付昨今右場所
    之内御境書被成被下難有奉存候尤火
    之元等御法度之儀ハ不及申上御渡シ
    場所外細木壱本ニ而モ決シテ伐取申間
    敷候旨被 仰付奉畏候御事
  2. 右ニ付〓

〓 出来仕候共少モ御苦労不申私共引請取捌可申候御事 〓 置然者大晦日ニ候間折節大雪降 夫ら丸屋ヘ帰リ木村弥五八殿金子出来ヲ 〓 一、庄屋助十退役組頭清助江任役 一、庄屋清助心配ニ而午暮ヨリ無利年延ニ相成候 一、開発人周助跡ヘ廣岡新田吉左衛門ト申者与三右衛門世話ニテ入込候 文政四年巳年三月 〓

槙平開発のことについて、古文書を写しましたが、まちがって解読した所もあると思います。

次の頁に載っていない地名・新しく地名を付けられた所もあります。

それは

藤坂道・あんくめ洞・刀洞・前坂・踊沢・油滝・箱滝・明抜沢・天狗洞・シャクナゲ沢・墓戸沢・墓戸峠・黒森・ロクロ

などがあります。

まだ他に地名があると思いますので、知ってみえる方は教えてください。

この地名について、岩村の水野さん、小野さん、阿木の森井さんに大変お世話になりました。

昭和58年度あぎ 槙平一件覚帳 槙平周辺地図.png

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