橋本祐三郎首塚

提供:安岐郷誌
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橋本祐三郎首塚(はしもとゆうざぶろうくびづか)[MAP]は富田の天神山に祀られている墓石。

橋本祐三郎は江戸時代後期に岩村藩の上郷 (阿木飯沼・東野など) を担当していた代官である。1829年 (文政12年/江戸後期) 2月5日に公金横領の容疑で岩村の商人等と共に捕らえられた。その調査の過程で阿木地域での帳簿改竄が明るみとなり、同年4月3日に打ち首に処せられている (文政の阿木騒動参照)。墓標には同年5月3日と刻まれている。

人目を忍ぶためか首塚は道路から200mほど山道を登った奥にひっそりと立てられている。道路脇には市の看板と石柱が立てられており目印になっている。首塚の周囲には他にも幾つかの古い墓石が立っている。

案内板

岩村地区では困窮する農民に慈悲を施し処刑された愛民代官として伝えられている。江戸後期から昭和の半ばまで恵那地方で流行った地歌舞伎の影響で地域伝承が戯曲化された為であろう。

愛民代官「橋本祐三郎」略伝

岩村藩士橋本祐三郎は四十石の知行取りで上郷地区の代官として岩村、富田、飯田、阿木等数ヶ村の民政を担当していた。文政から天保年間にかけて全国的な凶作が続き、岩村藩も例外でなく農民は年貢米 (税) を納めるのに非常に苦しみ、木の葉、草の根まで喰べて耐え餓死者が出たこともあった。文政年間(一八一八〜一八二九)になって岩村藩の財政は益々苦しくなり年貢米の取り立ては厳しさを加えた。祐三郎は年貢米を徴集する代官の立場にあり乍ら農民に同情して何かと便宜を計ってやった。その中で阿木村の年貢米を納入する郷倉 (年貢米を収納する倉) の米の数量を報告するにあたり未納分があったのに、全納されたと報告し、不足分は豊作の年に埋め合わせるようにした。これが当時藩政改革を断行していた家老の丹羽瀬清左衛門に摘発され不正役人として捕らえられ斬首と云う厳しい刑となった。阿木村の庄屋、村役人、組頭等は村追放、その他関係農民も百余名が処罰された。文政一二年 (一八二九) 五月 農民の助命嘆願も虚しく祐三郎は斬首された。大円寺庄屋神谷宗右衛門が藩主に嘆願して首級を貰い受け自分の土地の黒地山に手厚く葬った墓碑に“祐山逸道居士”とあり院号はない。今も愛民代官として遺徳を偲び参詣人が多く毎年五月の命日には法要が営まれている。此処から正面の台地上の墓まで約四百メートルである。

祐山会 岩村町観光協会

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資料撮影 2009/08 [1]

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