二十七会講
提供:安岐郷誌
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− | {{ruby|'''二十七会講'''|にじゅうしちかいこう}} | + | {{ruby|'''二十七会講'''|にじゅうしちかいこう}}は江戸時代後期の[[岩村藩]][[文政の改革]]で行われた財政支援策の一つ。年二回、各村々から頭数・領地高に応じた金額を掛けさせ、集めた取り金を藩または特定の村に与える藩主導の殿様[[無尽]]である。 |
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− | + | 二十七会講は村々の相互扶助というよりも悪化の一途をたどる藩の財政支援という意図が大きく、取り金の優先的割り当てなどで藩に有利な規則となっていた。また村々がこの無尽の取り金をあてにできる事から藩への借り入れも活性化し、利子収入が上がるといった狙いもあった。 | |
しかし領民にしてみれば平素からの貢賦に加えて二十七会講の掛金も上納しなければならず生活を圧迫した様である。 | しかし領民にしてみれば平素からの貢賦に加えて二十七会講の掛金も上納しなければならず生活を圧迫した様である。 | ||
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2010年9月1日 (水) 22:30時点における最新版
[編集] 背景
二十七会講は村々の相互扶助というよりも悪化の一途をたどる藩の財政支援という意図が大きく、取り金の優先的割り当てなどで藩に有利な規則となっていた。また村々がこの無尽の取り金をあてにできる事から藩への借り入れも活性化し、利子収入が上がるといった狙いもあった。
しかし領民にしてみれば平素からの貢賦に加えて二十七会講の掛金も上納しなければならず生活を圧迫した様である。
[編集] 二十七会講騒動
1828年 (文政11年/江戸後期) 12月、阿木の頭取連中は田中の若王子神社に集まり生活を逼迫する二十七会講の今後の扱いに付いて協議を行った。講を一年間休むという話もあったが、阿木に割り当てられた掛け金 80 両のうち半分の 40 両で免じてもらう嘆願という結論に至った。しかし藩はこの陳情を「徒党を組んで御上に反抗しようとした疑いあり」として、集会に参加した組頭連中を呼んで聴取、禁足 (外出禁止) とした。
しかしこの一方で、掛け金の 40 両への減額は認められた。どうやらこの件は減額の嘆願よりも不穏な集会を行った事が罪として問われたようである。背景には、岩村藩内でもそれなりの石高を確保している阿木の組頭連中の圧力が強くなっていたという事があったのかもしれない。また財政改革によって生活の逼迫を強いている事からも、藩内でこのような動きが強くなれば強訴や一揆につながるという懸念から、徒党の取り締まり強化が成されたと思われる。
この二十七会講騒動は年が明けて文政の阿木騒動へ繋がる事となった。