大円寺
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− | '''明覚山'''{{ruby|'''大円寺'''|だいえんじ}}は室町時代から戦国時代にかけて岩村町大円寺にあった[[w:臨済宗|臨済宗]]の寺院。建武の頃 {{note|(1330年代/鎌倉)}} に遠山氏が京都[[w:大徳寺|大徳寺]]から高僧{{ruby|<strong>祖一</strong>|そいつ}}を招き岩村遠山氏の菩提寺として開山したのが始まりである。 | + | [[File:iwamura daienji01.jpg|thumb|大円寺跡]] |
+ | '''明覚山'''{{ruby|'''大円寺'''|だいえんじ}}<map name="大円寺跡" lat="35.370061" lon="137.465597"/>は室町時代から戦国時代にかけて岩村町大円寺にあった[[w:臨済宗|臨済宗]]の寺院。建武の頃 {{note|(1330年代/鎌倉)}} に遠山氏が京都[[w:大徳寺|大徳寺]]から高僧{{ruby|<strong>祖一</strong>|そいつ}}を招き岩村遠山氏の菩提寺として開山したのが始まりである。 | ||
− | + | 藩主[[遠山景前]] {{note|(1530-50年頃/戦国)}} は信仰が厚く、天文の初頭に[[w:妙心寺|妙心寺]]派の{{ruby|<strong>明叔</strong>|めいしゅく}}を招いた。また天文の末頃にも京都の妙心寺より大智識と名高い{{ruby|<strong>希菴</strong>|きあん}}禅師を迎えた。 | |
景前の死後、希菴は武田信玄に迎えられ甲斐の恵林寺に入ったがすぐに京都へ去り、また大円寺に迎えられた。信玄は何度も使いをやり恵林寺に戻そうとしたが希菴はがんとして応じず、怒った信玄は {{年号|1572}} の岩村侵攻で秋山晴近に希菴の殺害を命じた。大円寺から逃れた希菴は飯羽間で3人の刺客に殺害された。また大円寺も焼失しその後復興されることはく、敷地は竹林と化した<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100</ref>。 | 景前の死後、希菴は武田信玄に迎えられ甲斐の恵林寺に入ったがすぐに京都へ去り、また大円寺に迎えられた。信玄は何度も使いをやり恵林寺に戻そうとしたが希菴はがんとして応じず、怒った信玄は {{年号|1572}} の岩村侵攻で秋山晴近に希菴の殺害を命じた。大円寺から逃れた希菴は飯羽間で3人の刺客に殺害された。また大円寺も焼失しその後復興されることはく、敷地は竹林と化した<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100</ref>。 | ||
− | + | 後に大円寺に縁のある竜雲山瑞林寺の竺源が復興を試みたが、遠山氏の菩提寺であるため時の藩主[[松平乗寿]]が許さず、代わりにその弟子が[[東光院]]を復興したと伝わっている。 | |
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+ | ==写真集== | ||
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+ | ==案内板== | ||
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+ | '''明覚山大円寺の歴史''' | ||
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+ | 大円寺は臨済宗妙心寺派の大寺で、遠山荘地頭、岩村城主遠山氏の菩提寺として建武年間 (一三三四〜一三三五) に臨済宗の高僧峰翁祖一によって創建された。時の岩村城主は遠山三郎と推定され、大円寺は遠山氏全部の菩提寺として遠山一族が総力をあげて創建した。 | ||
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+ | 峰翁祖一は妙興寺 (愛知県一宮市) の一世でもあり、関市の大禪寺、吉祥寺など数ヶ寺を開創している。 | ||
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+ | 大円寺二世は玉林宗璨、三世は月菴宗光と後を継ぎ、四世は宝林と思われるが詳かでない。五世は進叟性勝で足利四代将軍義掎の発令した大円寺住耺の耺状 (辞令) が妙興寺の塔頭の一つ、耕雲院に現存している。 | ||
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+ | 大円寺は、やや衰微したこともあったが、岩村城主遠山景前が天文三年 (一五三四年) に礼をつくして高僧明叔慶俊を迎えて再興した。明叔のあとは大本山妙心寺の管長耺をつとめた希菴玄密が住耺となった。希菴は快川国師と共に臨済の二大徳として天下に名声を馳せた僧であった。しかし武田信玄の意に強く逆ったので、信玄は、秋山晴近に命じて刺客を送り、元亀三年 (一五七二年) 十一月飯羽の橋上で希菴を殺害した。それと同時に大円寺も焼いてしまった。 | ||
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+ | 東濃三名刹として、十数ヘクタールの広さと、百名を越す修行僧を有していた建物群はすべて焼失し、大円寺の歴史の幕を閉じた。 | ||
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* [[希菴橋]] | * [[希菴橋]] | ||
+ | * [[比丘尼屋敷跡]] | ||
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2009年8月26日 (水) 15:30時点における最新版
明覚山
藩主遠山景前 (1530-50年頃/戦国) は信仰が厚く、天文の初頭に妙心寺派の
景前の死後、希菴は武田信玄に迎えられ甲斐の恵林寺に入ったがすぐに京都へ去り、また大円寺に迎えられた。信玄は何度も使いをやり恵林寺に戻そうとしたが希菴はがんとして応じず、怒った信玄は 1572年 (元亀3年/安土桃山) の岩村侵攻で秋山晴近に希菴の殺害を命じた。大円寺から逃れた希菴は飯羽間で3人の刺客に殺害された。また大円寺も焼失しその後復興されることはく、敷地は竹林と化した[1]。
後に大円寺に縁のある竜雲山瑞林寺の竺源が復興を試みたが、遠山氏の菩提寺であるため時の藩主松平乗寿が許さず、代わりにその弟子が東光院を復興したと伝わっている。
[編集] 写真集
- Iwamura daienji01.jpg
2009/08 大円寺跡の石碑。
- Iwamura daienji02.jpg
2009/08 歴代の住職が彫られている。
- Iwamura daienji05.jpg
2009/08 遺構と出土品の立て札が立てられている。
- Iwamura daienji06.jpg
2009/08 石碑。
[編集] 案内板
明覚山大円寺の歴史
大円寺は臨済宗妙心寺派の大寺で、遠山荘地頭、岩村城主遠山氏の菩提寺として建武年間 (一三三四〜一三三五) に臨済宗の高僧峰翁祖一によって創建された。時の岩村城主は遠山三郎と推定され、大円寺は遠山氏全部の菩提寺として遠山一族が総力をあげて創建した。
峰翁祖一は妙興寺 (愛知県一宮市) の一世でもあり、関市の大禪寺、吉祥寺など数ヶ寺を開創している。
大円寺二世は玉林宗璨、三世は月菴宗光と後を継ぎ、四世は宝林と思われるが詳かでない。五世は進叟性勝で足利四代将軍義掎の発令した大円寺住耺の耺状 (辞令) が妙興寺の塔頭の一つ、耕雲院に現存している。
大円寺は、やや衰微したこともあったが、岩村城主遠山景前が天文三年 (一五三四年) に礼をつくして高僧明叔慶俊を迎えて再興した。明叔のあとは大本山妙心寺の管長耺をつとめた希菴玄密が住耺となった。希菴は快川国師と共に臨済の二大徳として天下に名声を馳せた僧であった。しかし武田信玄の意に強く逆ったので、信玄は、秋山晴近に命じて刺客を送り、元亀三年 (一五七二年) 十一月飯羽の橋上で希菴を殺害した。それと同時に大円寺も焼いてしまった。
東濃三名刹として、十数ヘクタールの広さと、百名を越す修行僧を有していた建物群はすべて焼失し、大円寺の歴史の幕を閉じた。
岩村町教育委員会
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- ^ 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100