岩村城

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特に岩村の城山に建てられている高低差150mの険しい山の上にあり[[w:日本三大山城|日本三大山城]]の一つとされている。一般的に岩村城というとこの城山のものを差す。
現在の岩村城の築城を示す史料は存在しないが、[[巖邑府誌/論城府版築之始|巖邑府誌]]によれば文明年間 {{note|(1469-1486年/室町)}} に[[遠山景広]]によって築城され、また[[遠山景友|景友]]が城垣を整備したものであろうと推測している。それ以前の[[遠山景朝|景朝]]の土着 {{年号|1222}} から文明年間までは前地頭役から引き継いだ城館が大円寺にあり、現在の山城は見張りや合戦時に籠もるための砦だったのだろう。
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現在のような城垣が整備されたのは[[河尻秀隆]]、各務元正の時代である。
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== 歴史 ==
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岩村城の築城を示す史料は存在していないが、{{年号|1222}} に[[遠山景朝|遠山景朝]]が[[遠山荘]]に入領した時には平坦部に築かれた荘園統治のための城館あるいは砦のようなもので、その後戦国時代末期の16世紀になって本格的な山城が構築されていったとみられる<ref>[[日本歴史地名大系]]の「岩村城」より。</ref>。比定地としては[[遠山氏]]の菩提寺である[[大円寺]]や古市場という地名から、大円寺付近に城館があり富田周辺が城下であったと考えられる。
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江戸時代は岩村藩の藩庁、廃藩置県直後の[[岩村県]]の県庁として使用されていた。
  
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岩村城の山頂から直接見えるのは[[阿木城]]だけである。また[[保古山]]、[[花無山]]、武並山などにあった狼煙場を見る事が出来る。
 
岩村城の山頂から直接見えるのは[[阿木城]]だけである。また[[保古山]]、[[花無山]]、武並山などにあった狼煙場を見る事が出来る。
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2010年9月3日 (金) 00:03時点における最新版

名所旧跡
180px
岩村城跡
住所岐阜県恵那市岩村町字城山
位置[MAP]N35:21:35.64/E137:27:04.65
標高721m

岩村城(いわむらじょう)はかつて遠山荘・岩村藩を統治するものが使用していた中世から明治にかけての城郭。別名霧ヶ城とも呼ばれている。

特に岩村の城山に建てられている高低差150mの険しい山の上にあり日本三大山城の一つとされている。一般的に岩村城というとこの城山のものを差す。

目次

[編集] 歴史

岩村城の築城を示す史料は存在していないが、1222年 (貞応元年/鎌倉)遠山景朝遠山荘に入領した時には平坦部に築かれた荘園統治のための城館あるいは砦のようなもので、その後戦国時代末期の16世紀になって本格的な山城が構築されていったとみられる[1]。比定地としては遠山氏の菩提寺である大円寺や古市場という地名から、大円寺付近に城館があり富田周辺が城下であったと考えられる。

太平記によれば 1337年 (南朝:延元2年/鎌倉、北朝:建武4年)、越前国金ヶ崎城が陥落し新田義貞の消息が分からなくなった時に美濃霧ヶ城守遠山三郎が城を捨てて逃れたと記されている (大日本人名辞典)。

巖邑府誌では現在の城は文明年間 (1469-1486年/室町)遠山景広によって築城され、景友が城垣を整備したものであろうと推測している。

現在のような城垣が整備されたのは河尻秀隆各務元正の時代である。

江戸時代は岩村藩の藩庁、廃藩置県直後の岩村県の県庁として使用されていた。

  1. ^ 日本歴史地名大系の「岩村城」より。

[編集] 支城

岩村城から阿木方向

戦国時代に入り遠山氏の勢力が大きくなると木曽から土岐にかけての広範囲に子城・孫城を展開した。甲陽軍鑑などに記されている遠山十八支城が有名だがその他にも多くの砦を築いていた。

岩村城の山頂から直接見えるのは阿木城だけである。また保古山花無山、武並山などにあった狼煙場を見る事が出来る。

[編集] 写真集

岩村城/写真集参照。

[編集] 参照

[編集] 外部リンク

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