刀神の祠
提供:安岐郷誌
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現在でも小さな祠に刀の形をした木が何本も奉納されており時折献灯もされている。地区の神様ではなく近隣の一軒で管理していると言う。近年、農道脇の木々が伐採されたため目に触れやすくなった。 | 現在でも小さな祠に刀の形をした木が何本も奉納されており時折献灯もされている。地区の神様ではなく近隣の一軒で管理していると言う。近年、農道脇の木々が伐採されたため目に触れやすくなった。 | ||
− | 大野を開拓したと言われる土岐右衛門守 (飯狭右衛門?) かその子孫だろうか。[[新杜]]の開拓由来記によれば大野の開拓が始まったのが天文年間 {{note|(1532-1555年)}}、武田軍が阿木を蹂躙したのが天正2〜3年 {{note|(1574-1575年)}} | + | 大野を開拓したと言われる土岐右衛門守 (飯狭右衛門?) かその子孫だろうか。[[新杜]]の開拓由来記によれば大野の開拓が始まったのが天文年間 {{note|(1532-1555年)}}、武田軍が阿木を蹂躙したのが天正2〜3年 {{note|(1574-1575年)}} であるから年代的にも妥当な逸話である。 |
== 風景 == | == 風景 == |
2009年6月5日 (金) 00:18時点における版
名所旧跡 | |
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刀神の祠 | |
所在地 | 岐阜県中津川市阿木 |
位置 | N35:24:26.29, E137:29:14.60 |
大野農免農道の脇に
昔ここに岩村遠山氏に忠を尽くした武士が住んでいた。隠居の身ではあったが、遠山子城や龍泉寺などを落とした武田勝頼の軍勢が通ると聞き付け、義侠心で阿木城の精鋭と共に立ち向かい、刀折れ力尽きここに討ち死にした。これを哀れんだ村人達がせめてあの時に刀が保っていればと祀ったものだと云われている。
現在でも小さな祠に刀の形をした木が何本も奉納されており時折献灯もされている。地区の神様ではなく近隣の一軒で管理していると言う。近年、農道脇の木々が伐採されたため目に触れやすくなった。
大野を開拓したと言われる土岐右衛門守 (飯狭右衛門?) かその子孫だろうか。新杜の開拓由来記によれば大野の開拓が始まったのが天文年間 (1532-1555年)、武田軍が阿木を蹂躙したのが天正2〜3年 (1574-1575年) であるから年代的にも妥当な逸話である。