萬記録飯沼村/天狗党之乱
提供:安岐郷誌
元治元年 (1864年) 冬、浪士千人ばかり筑波山より出 道筋所々合戦。信州和田峠にて松本勢、諏訪勢と大いに戦ひ それより飯田へ来り妻篭へ出、十一月二十七日 大井宿泊り、鵜沼、加納辺りより越前、敦賀にて事終り。右に付 上古井村 (美濃加茂市) 百姓口上書写。
上古井村百姓 平七 兼吉
私共義、去る年十一月二十二日 志願に付江州多賀大社参詣仕り帰村し候。手統左に申上候。
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私共多賀参詣の上、十一月二十日 加納宿 (岐阜市) 泊り晦日朝出立。新加納迄相越候処、上りの方へ多人数武士抜身の槍、或は鉄砲所持 押し参り候に付 恐しく存じ候。
十二月二十九日 水戸浪士 鵜沼宿出立。追々通り両人共往還。北の方へ引込み候。
林山辺を通り見物致し罷在り候処。二十軒と申す所は此の辺 申所は此の辺に候哉と
鉄砲所持の人々近寄り参り相尋ね申し候。暫く東の方に候旨申し候。同じ風俗の人三相越、此の辺にて人足相雇い申し度旨申込候へ 兵人歩之れ無く甚だ迷惑致し候に付ては今晩泊り迄相雇ひ度旨申聞候に付、私共は多賀へ参詣仕り帰路の者に御座候間、何卒御断り申上げ度と相答へ候。尚又 十人ばかり相越し、中には騎馬武者一人
大将分と相見へ 此の馬一人引られ候申聞候。一人は荷物を持ちくれ候様 段々相頼候に付押て相断り候処。更に不聞八手を引立て 是非是非持参り申すべく旨やには 引立て候間何方の家中に候か 相弁ず候之共 身柄の人に頼らされ 此の上断の申し候ては如何様之義出来も難と計りと存じ奉り候間 不得止事。
平七は別当に相成り 兼吉は荷物を少々持付 相添越し、途中休息の所にて承り候へば水戸浪士の由承知仕り、恐しき候へ共 断も相立ず。付添参り菱村へ出 長良川渡り越し天王村並びに鳥羽村 栗の村等へ止宿。又々相断り帰村致しくれ候様申し聞候処、先方の申し条には 只今引取候にては
其方 共 身の上覚束 なく大垣、彦根を始め所々堅めも之れ有り、召取り候も難しく計り、今晩は一宿致すべくと叮嚀に取廻し呉れ必ず逃帰る事 無用と申聞候間。甚に心配の余り 右天王と申す村境口の所々 出入りの口々 道筋を浪士多人数にて相堅め、出入更に相成らず様相見へ候間。翌朝に至り 中仙道へ出候はゞ 其の節は如何様に致して成とも逃帰り申すべくと心組に罷り在り候処。 翌十二月一日 早朝より一同出立に付、又引連れられ候て 長屋村昼支度。同日揖斐村止宿仕り候。 - 私共召し連れられ候大将、名前承り候処 水戸に於て三百石分新太郎と申す人の由に御座候。
- 揖斐村泊り夜彦根、大垣等夜討参るべく由にて浪士に於ては口々に堅人数を以て厳重に相守り候義に御座候。
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十二月二日 金原村泊り同三日長嶺村並びに天神堂村、長嶋村等に止宿。私共は金原村に止宿仕り候。大将分 其の外にて評義仕り候義に付、模様は相訳らずにても何分此の辺り迠召連られ候上は逃帰り候義も
迚 も行届ず、外々より逃帰り候。人歩は御堅めの手に召捕られ 又々即座にて切捨てられ、或は村々百姓の手に入り一命を失い候者も之れ有り候旨 承り候に付、不得止事。付添罷り在り候処、先方の大将を始め至て私共を大切に取廻し呉、軍 に相成り候事も思ひ切り候様段々申し諭し之れ有り。 十二月四日、五日、六日之間、勘だ難渋。其の辺り雪深く 追々降り積もり 蝿帽子峠と申し越前越しの節は稲を切り落し、或は松、杉等を切り倒し往来通行留め、更に相成らず場所に差掛り候て、大将分の者 鋸、斧等 荷物より取出し 往来の妨ある木々切り除き、又は仮橋等芝松杉を以て取拵え相越し、私共は引馬荷物を持運び候次第に御座候。 - 此の辺りへ罷成候ては浪士鎧を捨て、又は駕篭、小筒、其の外不用の荷物は谷へ捨て、又は焼き失ひ身軽に致し峠を越し申し候。
- 小荷駄馬の内細道難場にて谷へ荷物共に馬欠落場所も之れ有り候。
- 病人等も此の辺りにては駕篭を捨て或は背追ひ又は手を引き合わせ、大病の者は二人三人して難所を取越し申し候。
- 此の辺りに至り候ては一日に一里二里位の所にて一宿致し候に付 四日より六日迄は甚だ難所に御座候。
- 此の辺り村々人家立ち去り 一人も村内に居り候者之れ無き村多く見へ、其の内居合せの者之れ有り場所も御座候へ共、人々土色の如くにして一言も申す者御座無く候。
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夜に入り候えば空屋に入り
篝火 多分に焚き、其の辺りの薪等勝手次第所々にて取集め 篝火昼の如くに御座候。 -
金子 等は所々にて貰ひ候義、叶はす食物等も多分に私共に得宛行候に付、入用御座無く先方へ預け置き申候。 - 右峠越前所々差掛り候節、人馬渡し方 大将にてそれぞれ工夫致し人家へ行てだちんを取出し川中へ敷人馬を渡し、芝を切り流し橋を致し人歩を渡し申し候。
- 此の辺りの谷々へ結構の甲冑等武器多分押流し候。尤も此の場所より所持の武器、槍、大筒の外持参致さず。身軽に相成り峠を越え 越前大野御城下村々の内へ入込候処。大野御領分七ヶ村領主より焼払に相成り陣場の手当と相見え橋々切落し之れ有り候処へ六日朝五ツ半頃着致し候処。 其の夜は寒風強く雪みぞれ降り身凍へ 甚だ難渋仕り候。去りたら七ヶ村焼捨候場所に一人も堅め人数も之れ無く大将始め焼残り居り候。土蔵の内より夜具取り出し一夜を明し申候。尤も夜中軍卒へ申付、之れ有候には明日必軍に相成るべく候間、大筒をさらへ申すべしと申し付けられ、大筒方にては夜中筒さらへ致し、大砲の音山間に響き今にも軍になり候心持に御座候。
- 兵糧に迷惑仕り候は此の場場所に御座候。尤も此の場所にて野陣に相成り候と相心得居り申し候。
- 十二月七日 木の本より北国海道池田へ出 止宿仕り候。八日 松ヶ鼻村泊り、翌九日今庄宿へ着候処。同所は彦根に御堅めに由、然るに本陣始め明渡し彦根方右宿出立致し逃去り跡と相見へ宿々席札等門に打之れ有り候所にて浪士一同止宿仕候。</p>
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此の辺り村人数更に之れ無く所逃げ去り。雪降り事五六尺滞留。二、三日にして十二日 新保宿へ止宿。是も彦根堅め場之跡に御座い候。
同日に候
哉 、日並聢 と覚無く御座候処。浪士より加州御固め御人数へ願出られ候由、下々の私共承り居り候には、去る戌年以来、天朝より異国討払の義 御公儀様始め諸大名様へ仰出され候所、打払之れ無くに付 此度水戸御隠居様の思召を臣下初め天朝へ願出申され候に付、加州様へ降参の上理不分明の事。御分下れ度願の田右願御聞入り相成候へば武田初め浪士本望の由、一命は勿論差出し願出候趣の由浪士衆より承り申し候。 - 右、願書き出し 十二日より二十四日迄段々御引合之様子に身請け申し候。同日承り候には、加州様へ願意御引請に相成候由、同日より敦賀へ御引入れ相成り申候。右、途中加州勢案内にて先立浪士五十人ばかりの中へ加州勢厳重に締り致し、段々右の通り致し敦賀表寺へ引入れ、右寺には幕打廻し加州勢ばかりにて外を固め、門外へ出候事叶ず、尤至って叮嚀に馳走一日替りに焼物付にして下され候。
- 十二月十九日 加州より御使者来り。其の節の様子承り候には浪士降参致し候由、然る上は異国打梻ひの味方は加州必ず引受申すべく旨、鑓、長刀、両刀、大筒其の外武器類馬迄残らず相渡しべくとの使者の由、夫に付日本三軍師と申し候 武田も安心して武器残らず大守の命に随ひ相渡し既に同日長持入にして残らず武器相渡し申し候。
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二十九日に相成り候所、締り人足役人参り武田を初組にて十人で罷出之旨申入れ候に付、夫々用意の上 入口を出候て元関へ向ひ順々に出て行き候。私共如何の事と心配致し居り候中、名前呼び候間、入口へ出候所 駕篭にふとん敷き乗り候様申し聞き候間、則ち乗り門外へ出、両方を見請候処、御公役並びに諸大名衆と相見え、槍、鉄砲にて
透間 も無く御固め相成り候。 一目見るより身体震へ縮み罷り在り候処。敦賀町引廻し参り 町端より行当りの所に幕打ち竹失来の場所有の内之馳込み、無二、無三に大勢押掛り高午小午に〆上げられ足には木材を以て拵え足狭 、六寸釘にて打〆め 其の上牢の内へ押込み申し候。右の通り 大将分初め一人毎に同様の次第に御座候。 私共両人、一人は四番の牢へ入、一人は十一番の牢へ入り申し候。右と申は土蔵の大き成り十七戸、前牢に立て仕り横に丸穴を明け食事通ひ場に致し 其の余は更に明間御座無く候。入り来り候人々 誠に心外の体にて相見へ、早く首打ち申すべく斯の如く仕向け加州大守に有るべく事無し。尤大名と怒り斯く有と知るならば先般諸大名の固め切抜き上京致すべき義は安き事。一万、二万の勢は皆殺しに致すべくを今更心外千万と実に立腹の声承り申し候。 - 牢に拵え候土蔵 長二十五六間内、八間より少きは長さ十一間。内四間位にて十七戸前人数八百余人右の通りに相成り申し候。
- 二月一日 士分ばかり一人毎に呼出し相尋ね申し由に御座候。右の人々牢へ帰り之上風聞を聞候所、筑波山初め湊川合戦、それより高崎、和田峠人数を討取り候分相尋ね候由に御座候。私共義は牢の丸穴の口へ役人参り始来相尋候。
- 平七の義は四番の牢 大将分国分新太郎、小栗弥平、山形半六初め一同の中へ入り申し候。牢中の様子に御座候。一日ににぎり飯三ツ貰ひ候。
- 入牢の時、衣類をぬがせ裸にして吟味致し候間、金子其の外着替等迄残らず相渡し申し候。
- 二月四日 四番牢より大将分国分新太郎呼び出し、夕方迄も帰り之れ無く如何と存じ候。其の日は雨風強く天地鳴か如く、定て変と人々思ひ合せ申し候。牢毎に大将分ばかり右の通りに呼出し、駕篭に乗せ連れ行き帰る人 一人も之れ無く、同日大将分二十八人呼出しの由。
- 同七日 私共初助命相成るべく分、敦賀御役所迠一人毎に呼出し御尋之れ有り候には、牢破りして逃去り候と申す者も相聞き、且つ又 加州始め公役を?々恨み候風聞之れ有候に付有体に申上ぐべく旨御尋ね之れ有り候へ共 左様の義一向に及ばずと相答え申し候。
- 十五日 百三十四人、十六日 九十九人呼び出しの由承り申し候。武田を始め呼出しの侭帰る人更に之れ無き候に付、定て目駕篭等にて江戸表に御差送りにても相成り半と存じ奉り候所、出牢の上夫々承り候処、何れも打首に相成り由承り申し候。
- 二月十七日 私共生前等御取調に付申上げ並びに押て召連られ候始末、有体申上候外 いつ方の者に候か 存ぜぬ者七、八十人も助命仰せ付られ、銘々迠金一分づつ下され 下役体之者 柳ヶ瀬御番所迠送り呉候。夫より道を急ぎ一昨二十一日帰村仕り候。 右、送り参り呉れ候下役体の者 噂には御仕置場所は大き成る堀り之れ有り、右穴三つ今日迠に埋め候由承り申し候。右御仕置方角遠見致し候所、鳶鳥千羽も群りウレ井声相聞へ只今にも耳に残り、永々御世話に逢候。人々死罪に相成り候と承り候へば思はず悲傷落涙仕り候。元来、事の善悪は相弁申さす候へ共段 慈愛に預り之義に付責ては一辺の回向香花も手向度と存じ奉り候。
- 右の外 長々浪士に附添候へ共別段承り候義も御座無く候。其の余御吟味に預り候義も御座無く候付は右の通り一旦浪士の者に召連れ候義に付 如何様に御咎仰付られ候とも今更申上くべく様御座無く候。併而たら召連れ候義に御御座無く候間、幾重にも御檮愍の?偏に願上げ候。
丑二月二十三日 | 平七(印) |
兼吉(印) |
右之通り相違申さず候間。御檮愍を以て御咎之義御
以上
上古井村 | 庄屋(印) | |
〃 | 組頭(印) | |
丑二月 | 吉村治通 写之(印) | |
平成七年 | 吉村弥吉 写記ス |
水戸天狗党動向
平成元年7月18日
天狗党等の動き | 岩村藩の動き | ||
---|---|---|---|
元 治 元 年 | 3/27 | 藤田小四郎尊王攘夷の旗揚げ | |
5/ | 幕府追討令 | ||
6/ | 幕府軍大敗 | ||
11/1 | 上野(群馬県)太子発 | ||
11/20 | 信州和田峠の戦 | ||
11/20 | 下諏訪宿泊 | ||
11/21 | 松島宿・木下宿泊 | 岩村藩評定 槙ヶ根で防備 | |
11/22 | 赤穂村泊 | ||
11/23 | 大島村泊 | 槙ヶ根に陣つくり | |
11/24 | 駒場泊 | 岩村評定 槙ヶ根より東野へ | |
11/25 | 上清内路泊 | 東野石仏に陣 上村へ | |
11/26 | 清内路より落合・馬籠泊 | 猟師・郷夫招集 対策評議 | |
11/27 | 大井宿泊 | 東野石仏に陣場つくり | |
11/28 | 大井宿発6時1236名 | ||
11/29 | 幕府の追手500名余 | 東野陣払う | |
12/17 | 加賀藩に降服823名 | ||
慶 応 元 年 | 1/29 | 幕府に身柄引渡し | |
2/1 | 白? | ||
2/4 | 353名処刑 | ||
6/26 | 水戸百姓ら120名大井宿通過 |
郷夫 | 猟師 | |
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阿木 | 100 | 28 |
飯沼 | 30 | 5 |
東野 | 70 | 23 |
中野 | 40 | 20 |
永田 | 18 | 2 |
野井 | 45 | 12 |
佐々良木 | 36 | 6 |
竹折 | 43 | 9 |
藤 | 50 | 0 |
久須見 | 42 | 5 |
合計 | 474 | 110 |
手当 郷夫一人銀3匁 猟師一人銀5匁
大将 | 松岡勝之助 |
渡辺佐治 | |
大野源兵衛 | |
武具方 | 梅村儀一郎 |
外士分 | 25名 |
飯沼村庄屋 | 藤四郎 |
東野 〃 | 茂右衛門 |
永田 〃 | 定吉 |
中野 〃 | 茂右衛門 |
藤 〃 | 三右衛門 |
吉村弥吉氏 平成7年配布の「