阿木
提供:安岐郷誌
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古代の阿木
阿木・飯沼は縄文時代の遺跡がいくつも存在している。阿曽田遺跡からは黒曜石の打製石器や矢作川流域で見付かる座光寺原式土器 (弥生時代) などが見付かっている事から古くから長野や三河方面との往来があったと考えられる。
縄文時代の遺跡は小規模な遺物包含地があちこちに点在しているが、弥生時代になるとこれらは消え阿曽田などのみに限られてくる。これは、縄文期の狩猟や採集が主体の生活ではある程度人口密度を分散させた方が食料効率が良く、逆に弥生時代に入って水稲耕作が取り入れられると村を作って共同作業を行った方が効率が良かったという事と思われる。
しかし鉄器や牛馬がなく「開拓」という概念もない時代に、山林地帯だった阿木は稲作に不向きな地だったのであろう。このため阿曽田などの一部の地域以外は、より効率の良い平地に人々が離れて行ったのかもしれない。
古墳時代の遺跡は阿木・飯沼で直葬式の円墳 25 基見付かっている。宮ノ根や阿曽田、久須田などに多く、これらの地区には村長や地方豪族のような者が支配する村が存在したのであろう。宮ノ根の古墳からは刀が見付かっている。
分団
阿木は飯沼を含めて 6 つの分団に分けられている。分団はそれぞれで消防などの設備割り当てや共同作業など生活共済活動区分である。