飯沼

提供:安岐郷誌
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飯沼一分団

飯沼(いいぬま)は阿木の北にあり東野と接している集落。現在の一分団に相当し、明治までは恵那郡飯沼村であった。

谷と尾根が入り組み複雑な地形を成しており、大日向遺跡宮ノ根古墳狐塚などの古代の遺跡が多く残されている。

由来

古くから遠山氏夫人に与えられた土地であった事から飯妻(いいづま)という名であったが、湿地や沼の多い土地であったことから江戸時代前期に現在のような飯沼と表すようになったと伝えられている。

飯妻のイイは近隣の「飯」と付く地名を考えても米のとれる土地という意味だろう。ツマの語源を調べると、古代から中世頃の倭言葉では「(つま)」という意味であり、端を切ったような家屋の造りを切妻造、離れの寝所を妻屋、端まで行ってしまう事を詰まる、添えてあるものを刺身のツマというように呼んでいた。現在の妻という言葉も妻屋に居る者という意味で夫も妻もツマと呼んでいたものがいつの時代からか女の方だけ残ったものである (諸説あり伴侶として傍らに居る者を男も女もツマと呼んだという説もある)。これを踏まえて飯沼周辺の歴史と特徴を考えると、飯妻とは「(飯沼川の? 荘園の? 旧大野村の?) 一番端 (奥) にある米のとれる地域」といった意味と考えられる。

巖邑府誌では飯妻と呼ばれる前は大野村の一部であったのではないかと推測している。また同誌では遠山夫人がこの飯妻村で安産の祈祷し、村はその供物などを納めていたために村人は難産しなくなったと云われている。この風習は現在でも子安講として続いている。

沿革

  • 1601年 (慶長6年/安土桃山) 岩村藩領となる[1]
  • 慶長郷帳 (1596-1615年/安土桃山) 高459石余[1]
  • 正保郷帳 (1645-1648年/江戸初期) 飯妻村とあり、田方267石余、畑方22石余、無地之田169石余[1]
  • 1648年 (慶安元年/江戸初期) 飯妻村宗旨改帳(吉村文書)による戸口は54戸261人[1]
  • 1699年 (元禄12年/江戸初期) 頃から沼地が多かったため飯沼村と呼ぶ[1][2]
  • 1703年 (元禄16年/江戸初期) 旧大野村から大野村が枝村として編入。
  • 1717年 (享保2年/江戸中期) 宗旨改帳(可知文書)による人数333人[1]
  • 天保郷帳 (1830-1843年) 高535石 (新田、大野村、川欠けによる減石分含む)[1]
  • 1872年 (明治5年) 村明細帳によれば高442石余、反別田35町2反余、畑7町4反余、家数84、人数410、馬46。内大野村分高92石余、反別田6町6反余、畑2町6反余、家数12、人数54、馬11[1]
  • 1897年 (明治30年) 明治の大合併で阿木村と合併しその名は字として残る。
  • 現在飯沼の名前は中津川市の大字。
  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 日本歴史地名大系, 平凡社地方資料センター, 1993年, 平凡社, ISBN 978-4040012100
  2. ^ 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100

関連項目

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