旧大野村

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大野八幡神社

旧大野村(きゅうおおのむら)は現在の大野杜を中心として江戸時代初期まで存在した集落の名前。おおよそ飯沼上の上部から広岡、中組に相当する。江戸時代に大野村広岡新田に別れてそれぞれ飯沼村、阿木村の枝村となった。

目次

沿革

  • 天文年間 (1532-1555年/戦国) 右衛門一族が流れ住み右衛門平を開拓[1]
  • 1571年 (元亀2年/安土桃山) 大洪水と山崩れにより全村のほとんどが埋没し僅か13軒と一部耕地のみが残る[1]
  • 1604年 (慶長9年/江戸初期) 岩村藩主松平和泉守家乗公の代に再度開拓を開始[1]
  • 慶安年間 (1648-1651年/江戸初期) 戸口が増え小字も大野、右衛門平、大柳、広岡など新田部落を成す[1]
  • 1679年 (延宝7年/江戸初期) 新田村高158石 (内広岡新田109石余[2])、家持ち百姓39軒[1]
  • 1703年 (元禄16年/江戸初期) 大野村15軒と古田92石を飯沼村の枝郷、大野新田村56軒158石が広岡新田村と称して阿木村の枝郷となる[1]
  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 新杜開拓者慰霊碑
  2. ^ 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100

解説

巖邑府誌や美濃明細記のような江戸時代中期の文献では、現在の新田 (飯沼) 付近から大野、広岡、清水、中組を大野または大野平と呼んでいることから旧大野村もその地域であったと比定される。現在の大野の圃場は古く湿地のような場所でこれを以て大野と呼んだのだろう (あるいは大日向〜新田周辺を指したものかもしれない)。

旧大野周辺には縄文時代の大日向遺跡が存在している。しかし古墳や土師器のような遺跡が残っていない事から、弥生〜奈良にかけては定住者が居たとしてもそれほど大きな集落はなかったと考えられる。平安時代の神名帳に阿気明神 (現血洗神社) と記されていることから、少なくともこの頃には何らか集落があったのではないだろうか。

中世の戦国期に右衛門と呼ばれる者が右衛門平に流れ着いて大野の開拓を始めたと言われている (岩村城の戦いが起きる数十年前)。

江戸時代の初期には岩村藩主導での本格的な開拓が始まった。入植者が増えて山林地域の開拓が進むと大野古田は大野村、大野新田は広岡新田としてそれぞれ飯沼村、阿木村の枝村へ統合された。現在の大野の水田地帯のみが飯沼の飛び地となっているのはこの地域が当時の大野古田だったためであろう。

「大野には人を入れない」という伝統が現在でも残っており、大野地内で大野に属すと称せるのは十軒ほどである。これらの事から考えると、古くから旧大野村に住んでいた人と、新しく来た入植者との間で明確に区分けがされていたようである。旧来者は飯沼村と関係が深く、入植者の多くは阿木村から来たのではないだろうか。

とはいえ分離後もしばらくは大野八幡神社を広岡新田の氏神としていたり、広岡八幡神社が大野八幡神社から勧請された事からも対立という程の構造はなかったのであろう。

四方山話

  • 大野の薬師様北側の弘法様は旧大野村にあったお寺か御堂に祀られていたものを村分けによって双方に分けたのではとも言われている。

関連項目

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