乗政寺山墓地

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岩村町指定史跡 乗政寺城主墓地
 
岩村町指定史跡 乗政寺城主墓地

2009年8月20日 (木) 22:38時点における版

乗政寺山墓地(じょうせいじさんぼち)[MAP]は旧岩村高校の東の丘 (乗政寺山) の南麓にある古くからの墓地。江戸時代初期から中期までの岩村城主やその家族、家臣の墓が残っており、また下田歌子の墓もここに建てられている。

目次

沿革

乗政寺山は江戸時代の初期から藩主が入れ替わるたびにお寺が建てられている。

隆崇院

1601年 (慶長6年/安土桃山)松平家乗が上野国那波藩から移封された時に乗政寺山に菩提寺久翁山龍巌寺を建立した。1614年 (慶長19年/江戸初期) に家乗が没すると寺内の墓地に葬られ、家督は乗寿が継いだが、1638年 (寛永15年/江戸初期) 家寿の駿河国浜松藩移封に伴い龍巌寺も浜松へ移っていった。翌 1639年 (寛永16年/江戸初期)、家乗の陵墓を護るために家乗夫人の命で龍巌寺跡の西隣に浄土宗の晴雲山隆崇院が建てられた (隆崇は家乗夫人の(おくりな))。

妙仙寺

家寿に代わって岩村に入領した丹羽氏信は龍巌寺の跡地に曹洞宗を入れ妙仙寺とした。以後妙仙寺は丹羽氏の菩提寺として 1646年 (正保3年/江戸初期) の氏信が没から氏定氏純氏明が葬られた。しかしお家騒動により氏音の代で丹羽氏は高柳藩に転封となった。また妙仙寺もこれに従い越後に移った。

乗政寺

一方、乗寿の次男乗政は信濃国小諸藩へ封されると浄土宗の菩提寺乗政寺を建てた。乗政の子乗紀は氏音に代わって岩村に入領、妙仙寺の跡地に小諸から石松山乗政寺が移された。

隆崇院は慶応年間 (1865-1868年/江戸後期) に現在の大通寺の場所に移された。また乗政寺も 1871年 (明治4年) の岩村藩廃止とともに廃され、その遺物は隆崇院が管理する所となった。現在の大名墓地はこれらの寺跡である。

写真集

案内板

岩村町指定史跡 乗政寺城主墓地

慶長六年 (一六〇一年) 松平家乗 (大給(おぎゅう)松平本家) が岩村城主となりこの地に龍巌寺を建立した。寛永一五年 (一六三八年) に松平氏は浜松 (静岡県) へ移り三州伊保(いほ) (愛知県豊田市) から丹羽氏がきて妙仙寺とした。元禄一五年 (一七〇二年) に丹羽氏は越後高柳 (新潟県) へ移り妙仙寺も同地へ移った。丹羽氏のあとへ信州小諸(こもろ) (長野県) から大給分家の松平氏が移り小諸城内にあった乗政寺をここへ移した。この地は由緒ある地で城主や家臣の墓が多い。乗政寺は明治四年 (一八七一年) に廃藩置県となり住職も死んだのを機会に廃寺とし、寺佛等を縁の深い隆崇院へ移管し建物もこわした。

城主の墓は 松平家乗 丹羽氏四代 分家松平氏の乗薀(のりもり)嫡子で林述斎の兄の乗国ほかがある。特に丹羽氏の墓は巨大であるが若くして死んだ丹羽氏明の墓は六地蔵を配してある。分家松平氏 家臣の墓も多く役家の丹羽瀬、大野、佐藤家等や講談で知られた小兵の居合抜きの名人「美濃の小雀」こと井野猪左衛門の墓、東京の実践女子学園の創設者で愛国婦人会長となった、明治、大正の女傑下田歌子女史の墓もここにある。この墓地一帯の山を今も乗政寺山と呼んでいる。

岩村町教育委員会

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資料撮影 2009/08 [1]

関連項目

参考文献

  • 日本歴史地名大系, 平凡社地方資料センター, 1993年, 平凡社, ISBN 978-4040012100
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