利用者:Torao/ノート/あぎ 昭和57年度

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(公会堂余談三題)
(公会堂が軍需工場になったこと)
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=== 公会堂が軍需工場になったこと ===
 
=== 公会堂が軍需工場になったこと ===
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太平洋戦争も末期、米軍の空襲が激しくなると、名古屋にあった陸軍造兵廠が、阿木へ疎開し、公会堂や青年学校を兵器工場とした。
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公会堂は平場の縁板を全部取り除き、ステージのところも切りとって、廻り舞台の装置になっていたので、半地下式になっていたものを土を運び込んで埋めて平にしてしまった。
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当時、軍の命令といえば絶対のものであったから、うむも言えなかった。何の兵器をどの位作られたか近寄ることもできなかったのでわからない。
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昭和十九年の夏のことであったと思うので、それから一年で敗戦となり、機械工具類は軍び去られ、鉄くずのようなものばかり中学校の運動場に大きな穴を掘って埋められたものだった。
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余談はさておき、敗戦の虚脱から立ちあがった村人は、早速公会堂の復旧にとりかかった。
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この数年間娯楽に植えていた人々にとって戦後はまったく自由になり、若者も戦地から帰ってくるなどして、催し物も次々と行われるようになった。
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=== 復興した公会堂 ===

2010年1月24日 (日) 00:57時点における版

阿木公民館冊子 「あぎ」昭和57年度版 (阿木公会堂特集) よりテキスト起こし作業。

目次

劇場の年表

見沢の舞台、安岐座、公会堂、大野舞台、広岡舞台、飯沼舞台
寛政六年 (一七九四年) 見沢森で祭礼の高揚始まり
文政年間 大野舞台できる
安政六年 (一八五九年) 安岐座建築
文久元年 (一八六一年)
明治七~八年 大野舞台を移築、広岡舞台できる
明治十年 屋根修理
大正三年 公会堂大改造
大正七年 電気が灯る
大正年間に広岡舞台は売り払われる
昭和八年 明知線開通祝賀歌舞
昭和二十年 軍需工場となる
昭和四十七年 貸倉庫となる
昭和五十七年 取り壊し

間違い、不明のことが多々あると思いますので、ってみえる方は、教えて下さい。

座の変遷と地芝居

はじめに

安岐座は常設の芝居小屋ではない。村人はふつう舞台と呼び、若い人は、公会堂といっている。

無用の長物となって処置に困り、貸倉庫となり、今では取り毀しになってしまいましたが、かつては近隣町村にない立派な建物ということで、村人の自慢の種であった。

以前老人から「犬山の明治村へでも寄贈すればいいのに」と口の端にのる位である。阿木の三十代より上の人にとっては、この舞台で演じられた芝居や、その他の催物にまつわる想い出も多く、四十代・五十代・六十代と年代が上になる程、想い出は濃密になり、愛着も深いのである。

建物は、修繕・増改築等を繰返され、時代によって使われ方も異なり、その変遷をみることは、庶民の側からの歴史ともなり興味深いのでがある。

建築にまつわること

始め見沢の八幡神社東隣りに掛舞台があり、祭礼の時にここで、芝居や寄席などの催物が行われたが、新しい舞台を作りたいという村人の強い願いから、保育園建設場所に安政六年に大工仕事にかかり、同七年三月二十七日棟上げになったものである。(安政七年は万延元年・西暦一八六〇年)

はじめは、寺領組外十三組で建てたものである。組名を列記すると、寺領・藤上・野内・見沢・宮田・野田・青野・八屋砥・久須田・黒田・田中・山野田・真原・大根木の十四組である。飯沼村・広岡新田村にはおのおのの舞台が別にあったもので、飯沼・広岡が加入するのは、昭和二十一年頃とずっと後になる。

村人が自慢するだけのことはあって、大きな立派な材料をふんだんに使って建ててあり、これだけの木材を集めるだけでも容易なことではないが、これにはこんな話がある。

あの山に大きな木があると目をつけ、各組より出た世話人が、その所有者の家へ行って話をしているうちに、若者連中はすでに伐採にかかっているという具合で、良いも悪いもない切り倒してしまったという。

もちろん対価なしの寄付であるから、山持にとっては迷惑なことであったろう。

こうして切り倒した材は、若者連中が大勢集まって、かなぐりを何本も打って引き出したと今でも語り草になっている。

時代は少し前だが、広岡新田の資料に、何でもない普通の若者が数人集り狂言の真似事をしたというので、村役人が岩村藩庁へ呼び出され、きついお叱りをうけている記録がある。

住宅のつくり方にも農民は強い制限を受けていたというから、舞台を建てるについては、岩村藩へ願い出て許可をとってから建てたと思われる。

藩のお許しがでて、自分たちが使うことのできる建物を造り上げることの喜びと壮大さが、村人をして前に記したような行動に駆りたてたものであろう。

小学校建設と舞台のこと

明治八年十一月、阿木に始めて小学校が建てられたときのこと、棟上げだけはできたが屋根も葺かず造作もせず二年近くも放置されたままであった。これは建設経費捻出のことから、村内の意見が二つに割れて紛糾し工事が中断されたためである。

一方の意見は、「阿木には大きな舞台があって今は無用の長物となっているから、これを改修して学校にすればよい。」ということであり、一方では、「舞台を学校にするようなことがあれば、当時我々の大切な木を寄付して出来た舞台であるから、この木材を取り去るべし」という論である。

もめた末明治十年六月に学校はでき上がり、舞台はそのまま残ることとなったが、舞台建設に見せた村人の情熱とこの学校建築に見られる村人の冷めた対応の仕方を見ると、これが同じ村人かと疑われる。

そして一方、このような記録を見るとき、舞台はそうたびたび使われていたものではないことも知れるのである。

大正公会堂のこと

明治時代はたびたび小補修を行い維持してきたが、大正三年になって大改造を行った。

それまで板葺きであった屋根を瓦葺にしただけでなく、楽屋 (役者の控室) を継ぎ足し、天井を張り替えるなど面目を一新し、芝居に使うだけでなく、村民が多数集る会合に使用するため「公会堂」と呼ぶことにした。

この時の改造の費用はどの位だったかというと、約二千円かかっている。

二千円といっても、今では貨幣価値が違っているのでピンとこないが、五百円あれば家が一見建つ時代であったから、いかに大金であったかがわかるであろう。

次に収入・支出の概数をあげてみる。

収入の部

関係組戸数割 (資産割) 一,〇八六円九銭
銀行預金引出 三五四円三六銭
村貸付金返金 五〇〇円
公会堂会計 四十円
払物代金 一三円四八銭
財産処分 三一円九一銭
瓦代 四四円 五銭
二〇七九円八九銭

支出の部

用材費 五〇七円四十六銭
設計費 六円
瓦代 六二二円二八銭
その他材料代 一四六円七七銭
職人・人夫賃 五九〇円八四銭
役員日当・手当 一二一円九三銭
その他雑費 七九円六九銭
二〇七四円九六銭

公会堂余談三題

公会堂改造にかける村人の熱のいれ方をあらわす一例として、瓦の例があげられよう。

瓦は一枚一枚たたいてみて音の悪いものは全部はねだし、焼けの良いものばかりで葺いたという。

収入の部に瓦代というのがあるが、このはねだしの瓦を売り払ったものであろう。

入口の上にかけてあった「公会堂」という額は、矢頭伝市氏の書になるというが、この額を作り上げた職人が自分の「賛」として蛙の形を隅において額をあげておいた。

その後、公会堂で催し物があるたびに必ず雨が降るところから、きっとあの額の蛙が雨を呼ぶのだと評判になり、蛙だけ取り除いたものだと古老より聞いた。

大正七年のことである。阿木電気株式会社が発足し、一般家庭へ送電を始める前に、ちょうど公会堂に芝居があって、公会堂へだけ送電したという。

パッと公会堂に電灯がついたとき、観客は一斉に手をたたき、まるで昼間のようだと喜んだという。

公会堂が軍需工場になったこと

太平洋戦争も末期、米軍の空襲が激しくなると、名古屋にあった陸軍造兵廠が、阿木へ疎開し、公会堂や青年学校を兵器工場とした。

公会堂は平場の縁板を全部取り除き、ステージのところも切りとって、廻り舞台の装置になっていたので、半地下式になっていたものを土を運び込んで埋めて平にしてしまった。

当時、軍の命令といえば絶対のものであったから、うむも言えなかった。何の兵器をどの位作られたか近寄ることもできなかったのでわからない。

昭和十九年の夏のことであったと思うので、それから一年で敗戦となり、機械工具類は軍び去られ、鉄くずのようなものばかり中学校の運動場に大きな穴を掘って埋められたものだった。

余談はさておき、敗戦の虚脱から立ちあがった村人は、早速公会堂の復旧にとりかかった。

この数年間娯楽に植えていた人々にとって戦後はまったく自由になり、若者も戦地から帰ってくるなどして、催し物も次々と行われるようになった。

復興した公会堂

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