利用者:Torao/ノート/あぎ 昭和57年度
阿木公民館の冊子 「あぎ」昭和57年度版より成人教育事業の章をテキストに起こしたもの。
目次
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阿木公会堂
劇場の年表
- 見沢の舞台、安岐座、公会堂、大野舞台、広岡舞台、飯沼舞台
寛政六年 (一七九四年) | 見沢森で祭礼の高揚始まり |
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文政年間 | 大野舞台できる |
安政六年 (一八五九年) | 安岐座建築 |
文久元年 (一八六一年) | |
明治七~八年 | 大野舞台を移築、広岡舞台できる |
明治十年 | 屋根修理 |
大正三年 | 公会堂大改造 |
大正七年 | 電気が灯る |
大正年間に広岡舞台は売り払われる | |
昭和八年 | 明知線開通祝賀歌舞 |
昭和二十年 | 軍需工場となる |
昭和四十七年 | 貸倉庫となる |
昭和五十七年 | 取り壊し |
間違い、不明のことが多々あると思いますので、ってみえる方は、教えて下さい。
座の変遷と地芝居
はじめに
安岐座は常設の芝居小屋ではない。村人はふつう舞台と呼び、若い人は、公会堂といっている。
無用の長物となって処置に困り、貸倉庫となり、今では取り毀しになってしまいましたが、かつては近隣町村にない立派な建物ということで、村人の自慢の種であった。
以前老人から「犬山の明治村へでも寄贈すればいいのに」と口の端にのる位である。阿木の三十代より上の人にとっては、この舞台で演じられた芝居や、その他の催物にまつわる想い出も多く、四十代・五十代・六十代と年代が上になる程、想い出は濃密になり、愛着も深いのである。
建物は、修繕・増改築等を繰返され、時代によって使われ方も異なり、その変遷をみることは、庶民の側からの歴史ともなり興味深いのでがある。
建築にまつわること
始め見沢の八幡神社東隣りに掛舞台があり、祭礼の時にここで、芝居や寄席などの催物が行われたが、新しい舞台を作りたいという村人の強い願いから、保育園建設場所に安政六年に大工仕事にかかり、同七年三月二十七日棟上げになったものである。(安政七年は万延元年・西暦一八六〇年)
はじめは、寺領組外十三組で建てたものである。組名を列記すると、寺領・藤上・野内・見沢・宮田・野田・青野・八屋砥・久須田・黒田・田中・山野田・真原・大根木の十四組である。飯沼村・広岡新田S村にはおのおのの舞台が別にあったもので、飯沼・広岡が加入するのは、昭和二十一年頃とずっと後になる。
村人が自慢するだけのことはあって、大きな立派な材料をふんだんに使って建ててあり、これだけの木材を集めるだけでも容易なことではないが、これにはこんな話がある。
あの山に大きな木があると目をつけ、各組より出た世話人が、その所有者の家へ行って話をしているうちに、若者連中はすでに伐採にかかっているという具合で、良いも悪いもない切り倒してしまったという。
もちろん対価なしの寄付であるから、山持にとっては迷惑なことであったろう。
こうして切り倒した材は、若者連中が大勢集まって、かなぐりを何本も打って引き出したと今でも語り草になっている。
時代は少し前だが、広岡新田の資料に、何でもない普通の若者が数人集り狂言の真似事をしたというので、村役人が岩村藩庁へ呼び出され、きついお叱りをうけている記録がある。
住宅のつくり方にも農民は強い制限を受けていたというから、舞台を建てるについては、岩村藩へ願い出て許可をとってから建てたと思われる。
藩のお許しがでて、自分たちが使うことのできる建物を造り上げることの喜びと壮大さが、村人をして前に記したような行動に駆りたてたものであろう。
小学校建設と舞台のこと
明治八年十一月、阿木に始めて小学校が建てられたときのこと、棟上げだけはできたが屋根も葺かず造作もせず二年近くも放置されたままであった。これは建設経費捻出のことから、村内の意見が二つに割れて紛糾し工事が中断されたためである。
一方の意見は、「阿木には大きな舞台があって今は無用の長物となっているから、これを改修して学校にすればよい。」ということであり、一方では、「舞台を学校にするようなことがあれば、当時我々の大切な木を寄付して出来た舞台であるから、この木材を取り去るべし」という論である。
もめた末明治十年六月に学校はでき上がり、舞台はそのまま残ることとなったが、舞台建設に見せた村人の情熱とこの学校建築に見られる村人の冷めた対応の仕方を見ると、これが同じ村人かと疑われる。
そして一方、このような記録を見るとき、舞台はそうたびたび使われていたものではないことも知れるのである。
大正公会堂のこと
明治時代はたびたび小補修を行い維持してきたが、大正三年になって大改造を行った。
それまで板葺きであった屋根を瓦葺にしただけでなく、楽屋 (役者の控室) を継ぎ足し、天井を張り替えるなど面目を一新し、芝居に使うだけでなく、村民が多数集る会合に使用するため「公会堂」と呼ぶことにした。
この時の改造の費用はどの位だったかというと、約二千円かかっている。
二千円といっても、今では貨幣価値が違っているのでピンとこないが、五百円あれば家が一見建つ時代であったから、いかに大金であったかがわかるであろう。
次に収入・支出の概数をあげてみる。
収入の部
関係組戸数割 (資産割) | 一,〇八六円九銭 |
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銀行預金引出 | 三五四円三六銭 |
村貸付金返金 | 五〇〇円 |
公会堂会計 | 四十円 |
払物代金 | 一三円四八銭 |
財産処分 | 三一円九一銭 |
瓦代 | 四四円 五銭 |
計 | 二〇七九円八九銭 |
支出の部
用材費 | 五〇七円四十六銭 |
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設計費 | 六円 |
瓦代 | 六二二円二八銭 |
その他材料代 | 一四六円七七銭 |
職人・人夫賃 | 五九〇円八四銭 |
役員日当・手当 | 一二一円九三銭 |
その他雑費 | 七九円六九銭 |
計 | 二〇七四円九六銭 |
公会堂余談三題
公会堂改造にかける村人の熱のいれ方をあらわす一例として、瓦の例があげられよう。
瓦は一枚一枚たたいてみて音の悪いものは全部はねだし、焼けの良いものばかりで葺いたという。
収入の部に瓦代というのがあるが、このはねだしの瓦を売り払ったものであろう。
入口の上にかけてあった「公会堂」という額は、矢頭伝市氏の書になるというが、この額を作り上げた職人が自分の「賛」として蛙の形を隅において額をあげておいた。
その後、公会堂で催し物があるたびに必ず雨が降るところから、きっとあの額の蛙が雨を呼ぶのだと評判になり、蛙だけ取り除いたものだと古老より聞いた。
大正七年のことである。阿木電気株式会社が発足し、一般家庭へ送電を始める前に、ちょうど公会堂に芝居があって、公会堂へだけ送電したという。
パッと公会堂に電灯がついたとき、観客は一斉に手をたたき、まるで昼間のようだと喜んだという。
公会堂が軍需工場になったこと
太平洋戦争も末期、米軍の空襲が激しくなると、名古屋にあった陸軍造兵廠が、阿木へ疎開し、公会堂や青年学校を兵器工場とした。
公会堂は平場の縁板を全部取り除き、ステージのところも切りとって、廻り舞台の装置になっていたので、半地下式になっていたものを土を運び込んで埋めて平にしてしまった。
当時、軍の命令といえば絶対のものであったから、うむも言えなかった。何の兵器をどの位作られたか近寄ることもできなかったのでわからない。
昭和十九年の夏のことであったと思うので、それから一年で敗戦となり、機械工具類は軍び去られ、鉄くずのようなものばかり中学校の運動場に大きな穴を掘って埋められたものだった。
余談はさておき、敗戦の虚脱から立ちあがった村人は、早速公会堂の復旧にとりかかった。
この数年間娯楽に植えていた人々にとって戦後はまったく自由になり、若者も戦地から帰ってくるなどして、催し物も次々と行われるようになった。
復興した公会堂
復興した公会堂は、一時期常設の映画館のようになった。これは一定の年限をきって、興行者に入札をさせ、落札した興行者の手によって娯楽の殿堂としたためである。
阿木劇場と呼ぶようになり、数日おきか、一週間めには映画があり、常時七~八分の観客があった。
昭和二十五年に、中央の名優、中村雁次郎丈を召請し歌舞伎をこの舞台で演じたことは、村人にとって大きな自慢の種であった。
中村雁次郎丈来るというので、大いそぎで大道具、小道具が新調されたものである。
また三十六粍の映写機も備えつけられ、劇場としての体裁を整えていった。
財産区管理となる
昭和三十年代に入ると、テレビジョンが普及し始め、興行がだんだん成りたたなくなってきた。そんな中で、昭和三十二年十一月に阿木村が中津川市へ合併をしたけれども、村民感情としてこの建物を市の財産とすることを許さず、あくまで区有のの持ち物であるとした。村役場がなくなり、財産区が設定されたので、公会堂の維持管理ものこの財産区に移った。
昭和四十年代に入ると、小学校に屋内体操場が建ち、大きな集会はこの屋台で催されるようになり、四十七年には区民待望の公民館が建築された。
この頃になると、公会堂のいたみ方もひどく、使用する必要性もなくなってきた。(建物の維持管理が財産区に移ってから、毎年一世帯二百円の維持費を集め、維持に当たっていた。)
往年の名優だった人々によって、阿木歌舞伎保存会がつくられているが、この人達の助言や指導、応援によって、青年たちが〝お名残素人大歌舞伎〟を想い出深い阿木劇場で一昼夜にわたって行った。
そして遂に貸倉庫に明け渡すことになったのである。
昭和四十九年三月財産区も解散となるに及んで必然的に中津川市へ移管される羽目になった。
地歌舞伎については、資料として残っているわけではないので、人々の語り草になっているものをたびたび聞く位で、断片的であり、正確なものにはなり得ない。
よく聞く話としては、昭和八年の明知線開通祝賀会に行われた芝居のことである。
このときは各組が競い合って芸題をだし、二十幕にもなった。一昼夜に六幕位消化しても三日余りかかる。せっかくここまでやったから、もう一度繰り返そうということになり、延々七日間の上演になった。
観客の方もまた熱にうなされたように、朝起きるとたくさんのわりごで弁当を詰め、いそいそと隣近所を誘い合って出掛ける。
ときには遠くの親類縁者を招き寄せて見物をさせる。年寄りや子供・馬などがいる家はだれか一人帰り、それぞれ食わせておいて、又戻ってみるという具合である。
この年は雪が多く、家々の屋根には雪が積もっていたのに、舞台の屋根だけは人々の熱気でとけてしまったという。
伎芸人鑑札と仮設劇場許可
地芝居は毎年毎年きまって行われたものではなく、何かの節というか、きっかけがあってやられたものであるが、その理由は民衆の側ばかりでなく、外からの規制もあったことを最近知らされた。
大衆の面前で芸を売るものは、たとえそれが素人であっても鑑札がないとできなかった。俳優は俳優の鑑札がなければならず、歌舞音曲すべて同じで、村役場が発行する鑑札を持った人だけに限られていた。
また、常設劇場以外での催し物のときは、勧進元が村長に願い出て、村長より所轄の警察署長に仮設劇場許可を申請し、警察署長の許可書が下りて始めて劇場を開くことができたものである。
これは昭和二十年まで続いたのである。
村人も誰もが歌舞伎を愛好するという土壌から、素人であっても多くの名優が育ち、想い出の名場面が生れた。
それは現存する人もあり、故人になられた方もあるが、そしてその人達の子や孫がまた芸達者であるというように、ちょうど血すじのようになって受け継がれたきた。
このことはひとり阿木のみにとどまらず、この地方一帯の伝統となっている。
一世紀余の安岐座が、さまざまな要因によってたどった消長と、阿木気質のようなものを少しでもお汲み取りいただければこんな幸せなことはない。
公会堂と名工〝原鶴吉〟
阿木のシンボル公会堂。村中を心身楽しませ、魅了させた公会堂は、皆んなに惜しまれて昭和五十七年六月遂に姿を消した。
万延元年上棟、文化初年完成したと云う安岐座、後の公会堂。
昔農神風神様がものすごく大賑いで、塞の神神社辺で夜を明かし、参拝する信者は実に大変な人だったと云う。
当時の若い集百寄合いの上安岐座建設決定、各地区の巨木名木の寄進を御願いする頃には切り倒されていたと云う。実に立派だった。
以後風神様参拝者は劇場満員、ヒヨンコに酒汲み交し、芝居狂言を見て夜の明けるのを待って参拝に。
昔の事故、また費用の関係もありササ板で屋根が葺かれていたので、大風等の場合屋根の守には大変だったと思はれます。
大正三年甲寅年改修され瓦葺きになった。
丁度其年から劇場名だと劇場税が課せられることになり、公会堂と命名した。
時の村長西尾資英氏で、その時から芝居は春秋二回、一回三日で、活動写真、浪花節等出物は制限なしで出発。唯一の娯楽の殿堂としてまことに懐かしく楽しさ一杯だったことは忘れる事は出来ない。
其の頃から年二回の芝居が開幕すると必ず雨が降り、そんな事が何年も続いた。
そこで誰云うとなく次の様な話が村中広がった。
公会堂の改修にあたり、大きな舞台に誠にふさわしい大きさ、取合い申分のない『公会堂』の額が上げられた。
公会堂の字は、当時小学校の先生〝矢頭傅市先生〟。黒字に白のシックイで額を塗り上げたのは左官業〝原鶴吉氏〟。
公会堂と書いた左上に大きなヒキ蛙一匹、四ツばいに塗り上げられ実に見事な出来栄えだった。
「其のヒキ蛙が雨を呼ぶに相違いない」と異口同音村中そんな話で評判、遂にヒキ蛙は取り去られて、今だに其の跡が残っている。其の後晴天が続いたと、実に不思議な事実であった。
今考えるともう二~三点、何処かにそんな作品を残して、若し雨を呼ぶ様な事があったら、天下の名匠左勘五郎と肩の並ぶ名工〝原鶴吉〟だったのに実に残念至極。
今に伝る『公会堂のヒキ蛙と原鶴吉』後世に伝へ度い『原鶴吉とヒキ蛙』。
終戦の高配した村民を一堂に集め、地芝居を踊る人、見る人、笑顔で和やかな風景こそ今以って思い出します。
近郷に希な誇りを持った公会堂が取り除かれる事になり、一寸さみしい気持ちになりました。
時代の移り変わりは言う迄も無く、テレビ等の普及も大きく、だんだん楽しみを求める場が変わって来ました。でも懐かしく思い出される子供芝居等、もう今では大きな子供さんの親となって見えます。
義太夫の語りに合わせて手を振りかざし、舞台一ぱいに声を張り上げての熱演ぶり……… もう見る事は出来ません。でも其の後地に保育園が新築され、姿形は変れども、次代を背負う可愛いい子供の殿堂となる事は意義有り、喜ばしく思います。
遠からず流れ出る唄声嬉々として遊べる日の来る事を願う区民の一人です。
公会堂、昔は阿木で一番大きな建物。村の人達の寄付で作られた。
木・道具を沢山出した家 (柱・かもい等) は特等席に座らせて貰うことが出来た。
元は板葺屋根だったけど、大正の始に瓦屋根に替えられて、皆の注目の的になって芝居や映画がよく開かれた。
けやきの通し柱が太くて見物の邪魔になるとて、鉄の柱に取り替えられたこともある。
いい役者といえば、中村雁次郎が来て上演した時等大入りだった。
太平洋戦争中には、座敷のしきりを取りはずして軍需工場 (名古屋陸軍造兵廠千種製造所の疎開) にしたこともあった。
時代の流れとはいえ、切角の大きな古い建物を取り壊したのは残念でした。
村の歴史を秘めていただろうあの巨大な舞台。
公会堂
去年 (昭和五十七年) の九月の初め頃かと思いますが、恵那から阿木線は通行止めでしたので、広岡からバスで農協へ行きました。
今頃はよく通行止めになると思い、徒歩で帰る途中公会堂が取りこわされていました。
公会堂といえば私達阿木の人間にとっては、どこの部落へ行っても立派で大きくて自慢の舞台でした。
素人芝居のある日など、学校帰りによくのぞいて見たものでした。
するめの焼けるにおい、白粉おつけた男の人、わりご弁当で近所の人達と芝居見物に行った幼い日のことが思い出されました。
なつかしいと同時に時代の波におし流されて行く公会堂が哀であり、長い年月ひこりおかぶり、阿木の歴史を無言で見つめて来た公会堂にさようならとつげて家路へとむかいました。
農村に誇る憩の殿堂 阿木公会堂の想い出
時代の変遷に伴い阿木公会堂が取壊されてしまった。欅づくめの頑丈な建物で有名であった。
阿木歌舞伎の舞台として多くの狂言役者を育て、戦前まで村民の最高の憩いの場であり、村祭あ豊川様の余興も此処で行われていたし、時々映画 (活動写真) も上映された。
私の青春時代は阪東妻三郎、月形竜之介や栗島すみ子、田中絹代などの主演に憬れて、白黒の写真を説明する弁士も堂に入ったものであった。
西の花道を六法踏んで退場する役者の姿が懐しく、今でも瞼に浮ぶ。
私が阿木尋堂高等小学校当時の恩師であった書道の達人、黒田出身の矢頭伝市先生の揮亳に成る『公会堂』の大看板は、阿木公民館に保管されて有るので、古の想い出を永遠に物語ってくれるでしょう。
村芝居
公会堂といえば歌舞伎芝居の盛んな頃が思い出されます。
私達の若い頃は今と違って娯楽も楽しみも少くない時代、芝居見物は村の人達にとって何よりの楽しみだったと思います。
毎年春と秋の二回の芝居はいつも満員で、何か村中が浮き立つような感じでした。そして芝居と云えば割籠の弁当も思い出のひとつでしょう。混み合う座席で広げる割籠のうれしかった事など誰も忘れられない事だと思います。
花道で六法を踏む役者の顔、愛らしい子役の台詞、長い幕合いの見物席のざわめき等々さまざまな情景は、遠い記憶の中で今も消えることなく古い人の心に残っていることだと思います。
時代の変りと共にすべてが変わった今、公会堂の建物は見られないけれど、存在したことは阿木の歴史の一頁に残るでしょう。
阿木の発展と想い出
公会堂で一番に思い出すのは、子供の頃祖母たちについて芝居見物です。
学校帰りにカバンを持ったまま、カバンを風呂敷に包んで祖母達と早くから場所取りに行ったものでした。
楽しみなのは「ワリコ」弁当でした。今の様なおかずではなく、里芋のにころ、トウフ、卵を焼いたものですが、其れがとてもおいしかった思い出です。
地元狂言といえば三日間位はあったものでした。
婦人会になってからは敬老会も公会堂で行った時もあった。
私達も花笠音頭や木曽節等踊ったものでした。今も写真が残っています。
戦争が始まって軍需工場になり、家にも工員さんを留めたものでした。
立派な公会堂も何時迄も残して置きたいけれど、文明文化の発展には仕方がなく、とうとうこわされてしまい、後には立派な保育園が出来つつある。
阿木村も中津川市に合併し、道路も広くなり、中学校新築工事もだんだんと進められています。
阿木川ダム建設現場へ見学に行って、余りの広大な大工事にびっくりしました。
小さな田も耕地整理で大きな圃場になり、道路も広くなり益々発展してゆく阿木の地を、健康に気を付けて中学校、阿木川ダムの完成が見られる様長生きして行きたいと思います。
噫々公会堂の想い出
幼い頃、公会堂での素人芝居見物には父母につれられてワリゴ弁当を持参、それの又美味しいこと。今では味わえんものとなりました。
東の方には出店を出す場所があり、料理屋まで出張せられにぎわしく、素人芝居となると阿木全域の人々が集まるので、屋内だけでは足らずに外まで屋根をして出店がならび、あの頃がほんとうに懐しい。
学校時代には一年に一度学芸会を公会堂で行い。青年団でも弁論大会等いろいろ行事を行い。
婦人会となりては敬老会の余興として踊りを両花道から踊り、素人芝居は云うに及ばず誰でもが無料程度で使用できたものでした。
活動写真が映画となり、劇団等は時々来ました。中でも芝居は中村雁次郎さんまで来て踊って下さり、雁次郎さんが「立派な舞台である」とほめて下さったと聞きます。
田舎の劇場としては大きく両花道があって、中津の文化会館よりは立派な公会堂であったと思います。昔にしてはよくもあのような立派な公会堂を建設されたものだと今更ながら感腹すると同時に文化財として残されなかったことを悔いてやみません。
保育園の後に多目的研修センターが出来るそうですが、安い料金で阿木の人誰もが使用出来て、安意に利用出来るやうに切に切にお願い致します。
公会堂の想い出
この草深い阿木の山村で長い間村人の数少ない娯楽の殿堂として、その威容を誇った公会堂が寄る年波には勝てずとうとう姿を消した。
想い起こせばなつかしい想い出が次から次と浮んで来る。
明治生まれの私達の一番古い想い出は、幼い頃珍しくその年は姉達が学芸会を公会堂で開催と云うので、父について見に行った。
廻り舞台がぐるりと廻り、姉達五六人が読本の朗読を始めた。その中の一人きりがチョコンと座ったなりで読んで居た。子供心に不思儀に思って後で聞いたら、廻り舞台で目が廻って立って居られない子で先生が貴女だけは座ったなりで読みなさいと云われたそうだ。その位廻り舞台の格好も良かったものだ。外の事は忘れてしまったのに妙にその時の光景だけ何故か今もはっきり覚えている。
お芝居も私達子供の頃はまだ電燈がなくて、日が暮れると裏方の小父さん舞台正面にぶら下がって居る大きなランプに三つ四つと火を入れて行かれるとパッと役者さんの顔が浮き上がって奇麗に見えたものだ。今思へば可笑しくなる様だけど結構にその時分はそれで明るく感じたものだ。
春と秋の二回必ず歌舞伎興行があり、その時は年増のおかみさんも若嫁も皆、村に二軒あった髪結いさんへ暗い中から出掛けて番を待って、大きな丸髷に結って貰い、わりご弁当を一背負して誰も彼も出掛けたものだ。
又、活動写真と云って居た映画も時々あり、その日は村の道を楽隊がブカブカドンドンと客寄せの音楽を流して歩くので見に行き度くてたまらず、一生懸命頼んで行かせて貰い坂妻や高木新平等の活劇を息をころして見入ったのもなつかしい想い出だ。
雁次郎丈の来演と云うので、昼の部は父母が、夜の部は私達若い者と代わって行った事、雁次郎丈も田舎にしては珍しい踊り良い立派な舞台だと誉められた等。
又、婦人会で一度敬老会の余興に素人歌舞伎を御願いした時、東野の役者さんはもう阿木の舞台を踏むこともないと思っていたのに声をかけて下さったと云う事は何と有難い事だ、もう嬉しくて嬉しくて御礼を持って来ずには居られませんと云って、金一封を反対にあちらから差し出されて誠に恐縮した事もあった。その時だったか文化部の方達が三~四人腰元の役で飛び入り出演されて美しかった事。
婦人会の発表会で、それぞれ皆さんがとても上手に研究発表された事。毎年毎年子供の学芸会は欠かさず行った事。阿木在住の役者さん達の素人離れのした素晴らしい演技に惜しみない拍手を送った事等々、想い出せばきりが無い。
此の想い出一杯つまった安岐座とは時代の流れと共に永久にお別れとなったものの、次の世代を担う大切な子供達が近代的な立派な保育園で心身共に健全にたくましく育ってくれる事を思えばこの上ない喜びである。
公会堂の思い出
明治時代か又はもう少し前の頃のことか、二百十日の頃ともなると三河、尾張の方面より笠にゴザ姿のおまいりの郡が三々五々続き、そして阿木座いわゆる公会堂を宿にとり、地芝居を見て帰ったと言う話を当家へ来て父に聞きました。こんな様子を想像して私は公会堂の貴重な思い出の一つにしています。
全容は東西に出入口があり、西口の方は木戸口と云って入場料を払う所があり、興行の時は一畳位の所に二~三人の番人が居ました。
東の方は出口で、その奥右に下足があり番人も居り、見物席は広場が四つに支切られ、中場が東西両方と高場と云う二階が東西に有り、正面は見付高場と呼んでいました。
その前に映写室も出来ていました。
両花道も広く立派なのが
チョボは
中茶屋もあり、幕間に鉢巻姿の小父さんの威勢の良い声で売り歩く姿、たちこめるタバコの煙、煙に乗って香ばしいスルメの香など幼い頃のなつかしい思い出の一つです。
戦時中は矢も楯ならず一時軍需工場になりましたが、戦後又民間に経営が移り、その頃は良い役者も度々来演をされ、先代中村雁次郎丈、市川八百蔵丈も来演した折、「この様な立派な舞台は珍しい、踊りがいがある」と云って歓び誉めて下さったということを聞きました。
昔から各行事が行われて来た舞台で、三月六日の敬老会の時は小学校の学芸会をしたことが思い出です。
何の楽しみとてない山村の舞台が開けば待ってましたと多くの人が出かけて楽しみ語らうのでした。
あの立派な柱、張、今も目に残っていますが、時代の移り変わりは如何様にもならず、昔からの旅人、村人、若人等の思い出をそのままに姿を消してしまいました。
私は公会堂の姿が無くなるのが本当に残念でしたが、日進月歩飛躍の今日の幼い児等の殿堂となるのを見て嬉しいことと思い、前途を祝福しています。
舞台の想い出
阿木公会堂は、私たちの幼ない頃は安岐座と云われ、東濃地方で最大の規模を誇るものでした。
当時 (昭和十年頃) は娯楽に乏しく、年に一度か二度の村芝居と地方巡業の芝居、映画 (活動写真) と演劇が時たま催されるのが、稲作と薪、炭を主体とした村民生活の中で唯一の娯楽であり、通常舞台 (公会堂) といって親しまれてきました。
春の植付から秋の収穫まで現在とは違い、足踏式の稲投機以外は総て手作業で、一家総出のそれこそ猫の手も借りたい大忙しの重労働でした。そんな生活の中で農閑期の村芝居は村民挙っての行事……のようでした。
定蔵サンの触太鼓が阿木の山野に山彦する頃、村内各部落の名(迷)優、珍優の出演とあって、前人気も最高で村内は勿論、近郷近在の親類縁者も泊り込みで、各家庭は竹輪、コンニャク、豆腐、竹の子、里芋等の煮付に銀飯を割子に詰め、朝から舞台目指して押し寄せたものです。
しばしの幕間にも仲店の S サン、N サンの威勢のいい「みかんにスルメにキャラメル」、「ハイ、おでんはいかが」の掛声と満員の吐息とざわめき、異常な雰囲気の中、荒莚の上で開いて喰べた割子弁当の味は又格別であったように思います。
芝居の終わった翌日からは次回の上演を楽しみにしつつ、それぞれ家業に励むという工合で、舞台はいろいろな意味で村民の活力源でした。
そんな舞台が時代の流れとによる年波には抗し得ず、今般取壊され非常に残念に思いますが、答辞に培はれた純朴さと義理人情、人と人との絆だけは絶やさないようにしたいと念願しています。
想い出
私が阿木へお嫁に来た頃は戦後の混乱期でした。そして食糧難時代、唯夢中で働いたものです。そんな時代ですから娯楽は何もありません。テレビもなければ趣味を楽しむこともありません。
唯一つの娯楽は、公会堂で行われる芝居や映画くらいなものです。お弁当を作ってみんなで芝居を見に行けるのはほんとうにうれしい事でした。芝居や映画のストーリよりも仕事を離れて、その雰囲気を楽しむことが何よりの息ぬきだったのです。
忘れもしません。今日は映画があると云うので、夕ご飯を早くすませて長男の手を引いて、長女を背負って隣の姉さん達と一緒に公会常へ行きました。映画は二本立くらいで、ニュースに続いて現代物、そして時代物、その時代物がチャンバラで刀を振り廻すシーンが出て来ると長女が「おそがいから早く家へ帰ろうよ」と大声でわめき出したのです。皆がこちらを見るし、顔から火が出る様でした。でも若い母親の私はもっと見て居たいし、なんとかしてなだめてと思っても「おそがいおそがい」と泣きわめき、とうとう耐えられなくなって出て来てしまいました。でも少したつと又見に出掛けるのです。
こんな思い出が今となっては懐かしく脳裏に浮んで来ます。
公会堂の想い出
私はいつ建ったものか分からないけれども、春と秋の二回は家の人達に連れられて芝居を見に行きました。大きな建物で大きなけや木の柱がありました。一杯に入ったら千人も入れそう。機械もない時代にどうして作った事でしょう。
平場、中場、高場とあって、両方に花道もあり立派な舞台でした。歌舞伎の時などいい場所で見たいので朝早くから木作りのわりご弁当を持って行き、それをもらって食べるのが何よりの楽しみでしたが、昭和十二年七月支那事変、大東亜戦争は長びき 公会堂も軍需工場と変わってしまいました。十年も続いた戦争と修理人もなく荒れはてて、私達にとっては遠き昔の思い出となってしまいましたが、時代が変わって公会堂跡に保育園が建設されました。
公民館も出来、高令者大学も出来て色々の教室もあり、老人の為にゲートボールの競技も出来て楽しい日々が暮らせます。
現在の老人は幸せです。本当に感謝の気持ちで一杯です。私達老人も健康に注意して阿木の変貌を見たいものです。
昔の飯沼村・飯妻座をしのぶ
私は山岡町で生まれ、飯沼へ来ましたので古い事は知りません。近所の御年寄りの方に尋ねましたらその方の話では……
子供の時「染五郎という役者の芝居を見た」と話して下さいました。その方の年を数えてさかのぼると明治三十九年か四十年ほど前かと思います。
舞台の建った時はおよそ明治の始ではないでしょうか? 舞台は大きな草葺き屋根、表間口は七間、奥行七間位で、柱は二尺の桧柱、廻り舞台で、花道は芝居のある時に造り、回りはむしろをつるし、見物人は庭にむしろを敷いて見ました。それが飯妻座でした。
私が来てからも二~三回ありました。その後昭和二十四年に壊わし、次年二十五年に新らしい社務所となりました。
今日ある物は飯妻座と書いた幕だけです。年に一度の飯沼敬老会の時に出して引きなさいます。今でも昔をしのんでいるものです。
飯妻座の思い出
私が今から考えて見て、まだ電気もない時代で七〜八才の頃だったと思います。私は母に連れられて飯沼のお祭りに行き、物覚えをしだした頃初めてお芝居を見ました。
私たちはムシロの上に座り、前過ぎたので舞台が高く役者の足元が見えず母にグヅッて叱られ、横に出て立見をして居て他人に押され、物見座席の回りにつるしてあったムシロにもたれ、黒暗にほうり出された事もおぼろげながら記憶して居ります。
其の時見たお芝居が巡礼おつるで、家に帰ってからもしばらくおつるの
私は其の当時の事がもう少し知りたいと思いまして、飯沼の鈴木九一様 (八十六才) にお聞きしてみました。鈴木さんのお話では、名前は飯沼座と云って、当時のお子安様のお祭りはお芝居があったそうです。廻り舞台で、白地に鶴が飛んでいる舞台幕が今も残って居るそうです。
私が見物さして頂いた「おつる」のお話をしました所、其の折の役者は釜戸から来てやられ、小役のおつるは岩村の稲能さん?とか云う役者の娘さんだったそうです。
舞台が暗くなると八分芯とか云う当時一番大きなランプを七個ほど付けて明りを取り、お芝居をしたそうです。
今思えば、横山のおじさんは私より十六才も年上で、私がハナをたらして芝居を見ているのに、横山のおじさんはきっと面白いお芝居を見て満足なさった事と思います。横山のおじさんは昔の事が何んでも分かりそう。おそばへ行ってももっと沢山色々と聞いたいと思いました。
飯沼神明神社の大杉と飯妻座
毎日神明神社の大杉を眺める時に、私どもは聞たい事、語りたい事が沢山ありますけれども、大杉はただただ何ともいわずに何百年と生きつづけ、昔から飯沼の人々の替わり様、又時代によって色々な出来事を見続けた事でしょう。何回かの台風にもめげず、大雪にも大きな枝で受け止めて、しっかいrとした姿を変えずに生き続けて居ります。
これを仰ぎ見る時、昔あったものが消え、新しく出来たものを見下している様は何といっても飯沼の宝と仰がねばならぬと思います。
昔、村芝居の盛んな頃には草葺屋根の舞台があって、村中の人々が一年中の一番の楽しみとして、近所、親戚の人々と朝早くから見物に出掛けて楽しまれた事でしょう。
今はただ昔の藍染の幕が一張、飯妻座と染めぬかれたのが有るのみです。
此の頃は、他町村から子安観音様へお参りに来られる方々が立派な杉の大樹だと仰ぎ見て、写真をとらせてとよく申されます。
大杉にこれからも長く長く生き続けて、人々に仰ぎ見られる事を祈って居ります。
神谷峯太郎方芝居
明治四十年四月二十八日、塞ノ神神社祭典の時神谷峯太郎方で芝居が行われたそうです。
蚕室は楽屋、蚕室前に掛舞台にして役者は松本みとり (当時八十才位、女形)、市川玉十郎 (後松本錦昇と改名) だったそうです。
神谷峯太郎住宅、蚕室は大正三年頃壊されたそうです。
阿曽田 遺跡の発掘について
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青野の伝説
昔から私たちの部落に話し伝わって来た雷石 (場所は阿木粟生野上、田圃の畦の大きな石) の話しです。(私、七十何歳かの老婆が半世紀も前の事の思い出で、間違いや分からない事もあると思います。)
その頃は今と違って大家族で、親子兄弟姉妹孫とで暮して居りました。年中大きな『いろり』で薪をたき、家内皆寄り合って毎夜色々と話がはずむ。其時父が孫を大きなひざに入れて、末の子をそばにして話て下さったのです。孫はまだ小さいので何も言わずに聞き入るばかり。六~七才に成る子供はそれはどうして、それからどうなるのと色々皆聞かせてもらった話しです。
雷石
いつの頃か良くわかりませんが、祖先からの話し伝に、青野村と言って居た頃、今と同じ小さな部落で、山にはとても良い大木が雲まで届く様に沢山有ったそうです。それが夏になると度々雷 (夕立) が来て山・畠を荒し、人々を怖がらせて帰るので、部落の人々が何か良い考えはないものかと話し合い、今度来た時にはどうにかこらしめたいと話して居たそうです。
その頃とても力持の剛力の人がおられて、今度来て暴れたら捕まえると待っていたそうです。
その夏の日、真っ暗な雲、雨とともに物すごい光と音と共にやって来たので、いざ此時と勇み立ち、力いっぱい雷 (夕立) を取り抑え、「いつもいつも悪い事ばかりして帰るので、今度は空に帰す事は出来ない」と言うと、「もう二度とこんな悪い事はしないから許してくれ」と、大きな怖い雷が大粒な涙を流し頼むので、「それでは何か証拠を残して行くなれば許す」と言うと、「自分は何も着ていないので仕方がない、それでは私の手の跡を証拠に」と、大きな大きな石に、大きな手の跡を深々と残して空高く登って行ったそうです。
その石が青野上の他に有ります。
子供や皆で見に行く事もありました。大正年間までは道端で、道を通りながら見ることが出来ましたが、昭和になり、新道が出来てから道から少し下方 (二十m程) になり、歩きながら見ることは出来ませんが、田の畦に有るのですぐに見えました。
畑の時は全部良く見えるが、水田の時は夏に水を張ると少し水に隠れて見えが悪いが、水がなくなれば良く見えました。
永い年月、雨や風に晒されて少しは跡も残くなった様に思います。
この事があってからは青野村には、雷がどのように光っても、音が激しくとも落ちてはこなかったと言って話して下さるのでした。
証拠の手形の石も今は阿木川ダム工事で、土を被り水底に眠る事になり、さぞ雷も安心して居る事でしょう。
丸山
家の前の阿木川の向の田の中にこんもり丸いお山が有ります。
昔、大変に力の強い神様が見えて、大きなもっこ (昔、土や石を入れて運ぶもの) に大山な土を入れて、肩で担いで遠い国へ行く途中、青野まで来てとても疲れたので、「半分だけ与えてやる」と言うておろして行かれた山で、周囲五百米程の丸く、高さ百米程です。
丸山は神様からいただいた山だし、高いので青野村が見下ろす事が出来ると、山上に鷹見家初代の墓地として、先代のお祭りを春秋にしていましたが、阿木川ダムに沈むことになり、新墓地に引越しをしました。
四百年近くなる墓です。「石碑の下にツボが埋めてある」との言い伝えでしたので、碑を運び下を掘りましたらツボがありました。それも引越しました。
湯場
家から二千米程離れたあじめいどの向こう岸、岩村川の支流に湯 (私もよく知らないが、硫黄泉) の出る所があり、皮ふ病 (でき物) に良いと聞いて居ます。
昔、今の様に良い薬も少なく方々の方々が、一升ビンなどに汲んで持って行きなさる事もよく見ました。
家でも明治の終わり頃まで、お正月には親戚の方々が大勢で、大変悪い川畔の一本道をおけに湯を汲んで肩でになって来て、おふろでわかして皆で入ったと話して見えました。
大勢で入ったり出たりして湯が少なくなったりすると汲みに行き、一週間程のんびりと話し合うのがとても楽しみで、毎年お正月の行事の様にしていたそうです。
明治生まれの方達は知ってみえると思いますが、小沢には湯屋が二軒有って、しばらくの間は盛大とまではいかなくとも家業にしてみえました。
今はどうなっているかわかりませんが、以前は川の畔から出ていました。
市神神社
恵那の七日市の市神様は、昔は青野に見えたのが大水が出て、流されて行きなされ、恵那で拾い上げていただき、恵那で祭られなさったそうで、明治の始め頃までは青野から出掛けて行かないとお祭が始まらなかったそうでした。
その時には清掃に身を正して行った様に聞いて居ます。明治以前は裃に二本 (大小刀) で、後には紋付羽織袴でいったと聞いていますが、いつ頃どうなったのかお父さん達の時代には行かず、恵那の方々で盛大に行われる様に成ったと聞いております。
阿木の淵
座頭淵
昔、目の見えない座頭が高い淵の上で、一足道を取りちがえて落ちて亡くなった所で、その後、座頭淵と呼ぶ様になったそうです。
場所は阿木川と岩村川の出合より百米程下流で、国道の駒瀬の少し下で、上より見下だすと身のちぢむ思いがして、道のくろを下を見ないようにして通ったものです。
こもん僧淵
こもん僧が長い旅路で疲れて、ここまで来て川の水を飲み、そのまま倒れて居たそうで、近くに埋葬してあるそうです。
水を飲んだ淵を後の人々は「こも僧淵」といい、今もその様に言われています。
猪淵
昔は家に少なく、山には色々な動物が多く居たそうで、向の山もなだらかに出ていて、こちらも山もなだらかに出張って居る淵の終りで、水の流れもゆるく、川巾も広いので、動物たちは良く知っていて、いのしし、しか、さるなどが食を求めて向かい山やこちら山に行き来して居たそうで、そのすぐ上の淵を猪淵と言っていました。
その近くの所は動物が通るのに良い道の様に成って居たとの話しです。
今日の様にテレビ、ラジオと色々と楽しむ物の多い世、月までも行く事も出来、人工衛星が空を飛び、電子の世の中では考えられぬ話しです。
先祖からの言伝えとは大切なもの。私たちも知っている事は若い人たちに話しをしておかねばならないと思います。
坂道
盆地の阿木は擂鉢の底の様な地形だけに多くの坂道で、昔は大変難儀をしたものです。
打杭峠、羽根坂、秋葉坂、茶屋坂、赤坂、お京が坂、だんだら坂を経て東野の平地へ。
最も急カーブで短いお京ヶ坂、長い長いそのうえ急なだんだら坂。
今では全く昔の姿はなく、打杭峠、羽根坂、秋葉坂に少し坂の形を残しているのみ。大変な変り様です。
飯沼の長い長いだんだら坂、そのだんだら坂に次の様な事があった古老は皆知っている。
日清日露戦役で大勝を上げ、昔の軍隊兵隊さんは実に神様の様で尊敬の的であった。坂本の陸軍用地へ兵隊さんが演習に来られると、大人も子供も勿論歩いて見に行ったものでした。
兵隊さんが行軍で阿木で宿泊された時、一人、二人、三人と各戸に割り当てられ、大変なおもてなしで村中上げて歓待であった。また通過の時は道路に茶菓を供え、御苦労をねぎらい心からお迎へ、お見送りしたものです。
対象の中頃だったか、野砲兵聯隊通過の時、だんだら坂にさしかかると、あやまって坂の中程から砲をすべらし下に落ちてしまい、さあ大変引き上げるのに長いロープをつけて将校殿号令、一列従隊に進め、止れ、廻れ右と隊を整列、用意始めヨイショヨイショ、ずるずると一米程、すぐズルズルと下まで落ちてしまう。体長声を一段と張り上げ用意始めの号令。ヨイショ又一米すぐ元の通り下まで。こんな事を何回も繰り返しても全々駄目。連絡を受けて村の集の助け舟。皆綱につかまり、美声の古老の木やり音頭。「皆でノー、力を合わせてノー、しっかり頼むぞヨ、頼んだぞヨ、ソレ引けヨイショ、ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ、万才」世話なく砲車は上がった。
見ていた将校殿兵隊さん、皆ボーとしてこれは素晴らしい。
木やり音頭の素晴らしさに驚く。だんだら坂の有名なお話し今に伝わる。
後世に伝えたいだんだら坂の木やり唄。
八屋砥獅子舞の由来
今から一世期前、明治十年頃牛鼻の西尾兼五郎氏が部落の若い衆が悪い遊び (バクチ) をして居るのを見て、組中相談して何か良い遊び事はないかと思ったやさき、岩村の獅子舞を見て、毎年秋の武並様の祭りには獅子舞をやるのでよい事だから、獅子舞の道具を買うことになった。
名古屋へ兼五郎氏はお供を二人つれて、朝早く出発した。「昔の人間は足が早く名古屋へ日帰りで行って買ってきた。途中多治見の辺で暗くなったのでびっくりした。それは日食だった。」と話して居られた。
それから半世紀位い時代の流れで休んでしまった。昭和五年頃から岩村の私の親類に獅子舞の歌う大家があるので、部落に相談して習い始めた。中々むつかしく難儀して覚え、若い衆に伝えて今に至る。
八屋砥築垣用水
昭和十年四月頃、八屋砥は阿木川を見下ろし、部落に水源地がなく、故西尾源太氏が何とか用水が引けぬかと考えて、田中川から水を引く測量を始め、県へ頼み測量して、入口は田中の杉浦の糀屋の前から隧道で久須田の新開の下を通り、久須田の西尾浅一氏方の山まで延長五百五十米の大隧道 (トンネル) の外に五つのトンネルで部落の用水が出来た。
今では池を掘り鯉まで養う様になった。
昭和十二年に記念碑を立てた。
当時の役員 西尾源太氏、西尾源太郎氏、西尾憲造氏、西尾和夫氏
牛
昔、印度に大きな牛がいた。印度では牛を大切にしていたそうだ。
牛の大きいのがいて。
阿木八屋砥に牛の鼻があり地名『牛鼻』
飯羽間に胴があって地名『胴ヶ平』
そして中切れがあり地名『中切』
又尾があって地名『尾先』
と私共の祖父さんより承っておりました。
中切れにて土地も良くて、お米も沢山とれたそうで。
仏教伝来の時、牛も来たと言う事も聞いて居ります。
龍泉寺道
龍泉寺ト申事ハ、龍泉寺観音堂之観音。別当阿木村山野田之浄光院ニ預リ置、毎年二月初午ニハ別当浄光院観音ヲ御供ニテ、龍泉寺観音堂ニテ御祭リ有之候。此日人馬参詣多シ。其日之内ニ御帰リ相成候。此道ヲ龍泉寺道ト申候。此道之頭ヲ印候。阿木村之内、山野田浄光院ヨリ、山野田富士間之森之前ヲ通リ、真原熊野権現之森之前ヲ通リ、根木屋坂ヲ下リ、根木屋橋ヲ越シ、大根木観音堂之前ヲ通リ、梅本坊之門前ヲコシ、ワラビ野之山之神之森之北ヲノボリ、渡場江出テ、瀧ヶ沢ヲ越し、室ヶ沢ヲ越し、押ノ沢原ヲ上江登リ、平四郎屋敷之東ヲ通リ、木戸ヶ入川ヲ渡リ、馬籠川ヲコシ、清水平右エ門屋敷之前ヲノボリ、タ々キヲ通リ、伝太平西之麓ヲ通リ、古屋敷ニテ越沢コシ、大柳平ヲ横ニ通リ、松沢川越シ、右エ門平土岐明神之前ヲ通リ、安気野原扇風石之前ヲ通リ、朴沢川コシ、与作新田之中ヲ通リ、腰掛石之前ヲコシ、血洗之池之北之畔ヲノボリ、神明之森之中ヲノボリ、井嶋ヶ峰息次清水ヨ通リ、龍泉寺馬場ニ出テ観音堂也。是龍泉寺道ナリ。是ガ当村之古道也。
川狭渡場~六地蔵江出テ、狐ゴウロヲノボルハ新道ナリ。元禄十五年七月十六日ヨリ川上アセボ坂道替リ候。阿木村分人足九拾人、当村新田分拾人出申候。川上人足六拾人出申候。川上人足江ハ、壱人ニ付米七合五タヅ々被下候。御代官様、西山様、一右太夫様、御山奉行近藤宗左エ門様、道奉行御足軽佐太夫様、此時川狭渡場~与佐田エ上リ、清水渡瀬ヲコシ、狐ゴウロ上リ、大柳平ニテ龍泉寺道ト出合候処ニ右之御役人様御見分之上相定リ候。処同十六年六月迠ニ出来上リ候。是御当代様十二月御代官様御中。勘定之節ハ此道ヲ御案内仕候。御代官様之駄荷壱駄ハ加ト分伝定、右エ門殿七里口之替リ二年々引却飯沼迠送リ候。事例各地御上様江御出役之時ハ、八月に検見又御山通リ節ハ、大根木渡場ヘ出向候。案内仕候。又外用之節ハ川狭渡場江御出向御案内、川上ヘ御越シ時ハ丼嶋ヶ峰御茶場迠御案内夫~川上之役人是各式也。何事ニテ茂出入村方ニ出来候節ニハ古帳面取調之上取斗候事。