利用者:Torao/ノート/あぎ 昭和57年度

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阿木公民館冊子 「あぎ」昭和57年度版 (阿木公会堂特集) よりテキスト起こし作業。

目次

劇場の年表

見沢の舞台、安岐座、公会堂、大野舞台、広岡舞台、飯沼舞台
寛政六年 (一七九四年) 見沢森で祭礼の高揚始まり
文政年間 大野舞台できる
安政六年 (一八五九年) 安岐座建築
文久元年 (一八六一年)
明治七~八年 大野舞台を移築、広岡舞台できる
明治十年 屋根修理
大正三年 公会堂大改造
大正七年 電気が灯る
大正年間に広岡舞台は売り払われる
昭和八年 明知線開通祝賀歌舞
昭和二十年 軍需工場となる
昭和四十七年 貸倉庫となる
昭和五十七年 取り壊し

間違い、不明のことが多々あると思いますので、ってみえる方は、教えて下さい。

座の変遷と地芝居

はじめに

安岐座は常設の芝居小屋ではない。村人はふつう舞台と呼び、若い人は、公会堂といっている。

無用の長物となって処置に困り、貸倉庫となり、今では取り毀しになってしまいましたが、かつては近隣町村にない立派な建物ということで、村人の自慢の種であった。

以前老人から「犬山の明治村へでも寄贈すればいいのに」と口の端にのる位である。阿木の三十代より上の人にとっては、この舞台で演じられた芝居や、その他の催物にまつわる想い出も多く、四十代・五十代・六十代と年代が上になる程、想い出は濃密になり、愛着も深いのである。

建物は、修繕・増改築等を繰返され、時代によって使われ方も異なり、その変遷をみることは、庶民の側からの歴史ともなり興味深いのでがある。

建築にまつわること

始め見沢の八幡神社東隣りに掛舞台があり、祭礼の時にここで、芝居や寄席などの催物が行われたが、新しい舞台を作りたいという村人の強い願いから、保育園建設場所に安政六年に大工仕事にかかり、同七年三月二十七日棟上げになったものである。(安政七年は万延元年・西暦一八六〇年)

はじめは、寺領組外十三組で建てたものである。組名を列記すると、寺領・藤上・野内・見沢・宮田・野田・青野・八屋砥・久須田・黒田・田中・山野田・真原・大根木の十四組である。飯沼村・広岡新田村にはおのおのの舞台が別にあったもので、飯沼・広岡が加入するのは、昭和二十一年頃とずっと後になる。

村人が自慢するだけのことはあって、大きな立派な材料をふんだんに使って建ててあり、これだけの木材を集めるだけでも容易なことではないが、これにはこんな話がある。

あの山に大きな木があると目をつけ、各組より出た世話人が、その所有者の家へ行って話をしているうちに、若者連中はすでに伐採にかかっているという具合で、良いも悪いもない切り倒してしまったという。

もちろん対価なしの寄付であるから、山持にとっては迷惑なことであったろう。

こうして切り倒した材は、若者連中が大勢集まって、かなぐりを何本も打って引き出したと今でも語り草になっている。

時代は少し前だが、広岡新田の資料に、何でもない普通の若者が数人集り狂言の真似事をしたというので、村役人が岩村藩庁へ呼び出され、きついお叱りをうけている記録がある。

住宅のつくり方にも農民は強い制限を受けていたというから、舞台を建てるについては、岩村藩へ願い出て許可をとってから建てたと思われる。

藩のお許しがでて、自分たちが使うことのできる建物を造り上げることの喜びと壮大さが、村人をして前に記したような行動に駆りたてたものであろう。

小学校建設と舞台のこと

明治八年十一月、阿木に始めて小学校が建てられたときのこと、棟上げだけはできたが屋根も葺かず造作もせず二年近くも放置されたままであった。これは建設経費捻出のことから、村内の意見が二つに割れて紛糾し工事が中断されたためである。

一方の意見は、「阿木には大きな舞台があって今は無用の長物となっているから、これを改修して学校にすればよい。」ということであり、一方では、「舞台を学校にするようなことがあれば、当時我々の大切な木を寄付して出来た舞台であるから、この木材を取り去るべし」という論である。

もめた末明治十年六月に学校はでき上がり、舞台はそのまま残ることとなったが、舞台建設に見せた村人の情熱とこの学校建築に見られる村人の冷めた対応の仕方を見ると、これが同じ村人かと疑われる。

そして一方、このような記録を見るとき、舞台はそうたびたび使われていたものではないことも知れるのである。

大正公会堂のこと

明治時代はたびたび小補修を行い維持してきたが、大正三年になって大改造を行った。

それまで板葺きであった屋根を瓦葺にしただけでなく、楽屋 (役者の控室) を継ぎ足し、天井を張り替えるなど面目を一新し、芝居に使うだけでなく、村民が多数集る会合に使用するため「公会堂」と呼ぶことにした。

この時の改造の費用はどの位だったかというと、約二千円かかっている。

二千円といっても、今では貨幣価値が違っているのでピンとこないが、五百円あれば家が一見建つ時代であったから、いかに大金であったかがわかるであろう。

次に収入・支出の概数をあげてみる。

収入の部

関係組戸数割 (資産割) 一,〇八六円九銭
銀行預金引出 三五四円三六銭
村貸付金返金 五〇〇円
公会堂会計 四十円
払物代金 一三円四八銭
財産処分 三一円九一銭
瓦代 四四円 五銭
二〇七九円八九銭

支出の部

用材費 五〇七円四十六銭
設計費 六円
瓦代 六二二円二八銭
その他材料代 一四六円七七銭
職人・人夫賃 五九〇円八四銭
役員日当・手当 一二一円九三銭
その他雑費 七九円六九銭
二〇七四円九六銭

公会堂余談三題

公会堂改造にかける村人の熱のいれ方をあらわす一例として、瓦の例があげられよう。

瓦は一枚一枚たたいてみて音の悪いものは全部はねだし、焼けの良いものばかりで葺いたという。

収入の部に瓦代というのがあるが、このはねだしの瓦を売り払ったものであろう。

入口の上にかけてあった「公会堂」という額は、矢頭伝市氏の書になるというが、この額を作り上げた職人が自分の「賛」として蛙の形を隅において額をあげておいた。

その後、公会堂で催し物があるたびに必ず雨が降るところから、きっとあの額の蛙が雨を呼ぶのだと評判になり、蛙だけ取り除いたものだと古老より聞いた。

大正七年のことである。阿木電気株式会社が発足し、一般家庭へ送電を始める前に、ちょうど公会堂に芝居があって、公会堂へだけ送電したという。

パッと公会堂に電灯がついたとき、観客は一斉に手をたたき、まるで昼間のようだと喜んだという。

公会堂が軍需工場になったこと

太平洋戦争も末期、米軍の空襲が激しくなると、名古屋にあった陸軍造兵廠が、阿木へ疎開し、公会堂や青年学校を兵器工場とした。

公会堂は平場の縁板を全部取り除き、ステージのところも切りとって、廻り舞台の装置になっていたので、半地下式になっていたものを土を運び込んで埋めて平にしてしまった。

当時、軍の命令といえば絶対のものであったから、うむも言えなかった。何の兵器をどの位作られたか近寄ることもできなかったのでわからない。

昭和十九年の夏のことであったと思うので、それから一年で敗戦となり、機械工具類は軍び去られ、鉄くずのようなものばかり中学校の運動場に大きな穴を掘って埋められたものだった。

余談はさておき、敗戦の虚脱から立ちあがった村人は、早速公会堂の復旧にとりかかった。

この数年間娯楽に植えていた人々にとって戦後はまったく自由になり、若者も戦地から帰ってくるなどして、催し物も次々と行われるようになった。

復興した公会堂

復興した公会堂は、一時期常設の映画館のようになった。これは一定の年限をきって、興行者に入札をさせ、落札した興行者の手によって娯楽の殿堂としたためである。

阿木劇場と呼ぶようになり、数日おきか、一週間めには映画があり、常時七~八分の観客があった。

昭和二十五年に、中央の名優、中村雁次郎丈を召請し歌舞伎をこの舞台で演じたことは、村人にとって大きな自慢の種であった。

中村雁次郎丈来るというので、大いそぎで大道具、小道具が新調されたものである。

また三十六粍の映写機も備えつけられ、劇場としての体裁を整えていった。

財産区管理となる

昭和三十年代に入ると、テレビジョンが普及し始め、興行がだんだん成りたたなくなってきた。そんな中で、昭和三十二年十一月に阿木村が中津川市へ合併をしたけれども、村民感情としてこの建物を市の財産とすることを許さず、あくまで区有のの持ち物であるとした。村役場がなくなり、財産区が設定されたので、公会堂の維持管理ものこの財産区に移った。

昭和四十年代に入ると、小学校に屋内体操場が建ち、大きな集会はこの屋台で催されるようになり、四十七年には区民待望の公民館が建築された。

この頃になると、公会堂のいたみ方もひどく、使用する必要性もなくなってきた。(建物の維持管理が財産区に移ってから、毎年一世帯二百円の維持費を集め、維持に当たっていた。)

往年の名優だった人々によって、阿木歌舞伎保存会がつくられているが、この人達の助言や指導、応援によって、青年たちが〝お名残素人大歌舞伎〟を想い出深い阿木劇場で一昼夜にわたって行った。

そして遂に貸倉庫に明け渡すことになったのである。

昭和四十九年三月財産区も解散となるに及んで必然的に中津川市へ移管される羽目になった。

地歌舞伎については、資料として残っているわけではないので、人々の語り草になっているものをたびたび聞く位で、断片的であり、正確なものにはなり得ない。

よく聞く話としては、昭和八年の明知線開通祝賀会に行われた芝居のことである。

このときは各組が競い合って芸題をだし、二十幕にもなった。一昼夜に六幕位消化しても三日余りかかる。せっかくここまでやったから、もう一度繰り返そうということになり、延々七日間の上演になった。

観客の方もまた熱にうなされたように、朝起きるとたくさんのわりごで弁当を詰め、いそいそと隣近所を誘い合って出掛ける。

ときには遠くの親類縁者を招き寄せて見物をさせる。年寄りや子供・馬などがいる家はだれか一人帰り、それぞれ食わせておいて、又戻ってみるという具合である。

この年は雪が多く、家々の屋根には雪が積もっていたのに、舞台の屋根だけは人々の熱気でとけてしまったという。

伎芸人鑑札と仮設劇場許可

地芝居は毎年毎年きまって行われたものではなく、何かの節というか、きっかけがあってやられたものであるが、その理由は民衆の側ばかりでなく、外からの規制もあったことを最近知らされた。

大衆の面前で芸を売るものは、たとえそれが素人であっても鑑札がないとできなかった。俳優は俳優の鑑札がなければならず、歌舞音曲すべて同じで、村役場が発行する鑑札を持った人だけに限られていた。

また、常設劇場以外での催し物のときは、勧進元が村長に願い出て、村長より所轄の警察署長に仮設劇場許可を申請し、警察署長の許可書が下りて始めて劇場を開くことができたものである。

これは昭和二十年まで続いたのである。

村人も誰もが歌舞伎を愛好するという土壌から、素人であっても多くの名優が育ち、想い出の名場面が生れた。

それは現存する人もあり、故人になられた方もあるが、そしてその人達の子や孫がまた芸達者であるというように、ちょうど血すじのようになって受け継がれたきた。

このことはひとり阿木のみにとどまらず、この地方一帯の伝統となっている。

一世紀余の安岐座が、さまざまな要因によってたどった消長と、阿木気質のようなものを少しでもお汲み取りいただければこんな幸せなことはない。

公会堂と名工〝原鶴吉〟

小栗 義雄

阿木のシンボル公会堂。村中を心身楽しませ、魅了させた公会堂は、皆んなに惜しまれて昭和五十七年六月遂に姿を消した。

万延元年上棟、文化初年完成したと云う安岐座、後の公会堂。

昔農神風神様がものすごく大賑いで、塞の神神社辺で夜を明かし、参拝する信者は実に大変な人だったと云う。

当時の若い集百寄合いの上安岐座建設決定、各地区の巨木名木の寄進を御願いする頃には切り倒されていたと云う。実に立派だった。

以後風神様参拝者は劇場満員、ヒヨンコに酒汲み交し、芝居狂言を見て夜の明けるのを待って参拝に。

昔の事故、また費用の関係もありササ板で屋根が葺かれていたので、大風等の場合屋根の守には大変だったと思はれます。

大正三年甲寅年改修され瓦葺きになった。

丁度其年から劇場名だと劇場税が課せられることになり、公会堂と命名した。

時の村長西尾資英氏で、その時から芝居は春秋二回、一回三日で、活動写真、浪花節等出物は制限なしで出発。唯一の娯楽の殿堂としてまことに懐かしく楽しさ一杯だったことは忘れる事は出来ない。

其の頃から年二回の芝居が開幕すると必ず雨が降り、そんな事が何年も続いた。

そこで誰云うとなく次の様な話が村中広がった。

公会堂の改修にあたり、大きな舞台に誠にふさわしい大きさ、取合い申分のない『公会堂』の額が上げられた。

公会堂の字は、当時小学校の先生〝矢頭傅市先生〟。黒字に白のシックイで額を塗り上げたのは左官業〝原鶴吉氏〟。

公会堂と書いた左上に大きなヒキ蛙一匹、四ツばいに塗り上げられ実に見事な出来栄えだった。

「其のヒキ蛙が雨を呼ぶに相違いない」と異口同音村中そんな話で評判、遂にヒキ蛙は取り去られて、今だに其の跡が残っている。其の後晴天が続いたと、実に不思議な事実であった。

今考えるともう二~三点、何処かにそんな作品を残して、若し雨を呼ぶ様な事があったら、天下の名匠左勘五郎と肩の並ぶ名工〝原鶴吉〟だったのに実に残念至極。

今に伝る『公会堂のヒキ蛙と原鶴吉』後世に伝へ度い『原鶴吉とヒキ蛙』。

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