利用者:Torao/ノート/あぎ 昭和57年度

提供:安岐郷誌
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2010年1月24日 (日) 04:52時点におけるTorao (トーク | 投稿記録)による版

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阿木公民館の冊子 「あぎ」昭和57年度版より成人教育事業の章をテキスト起こしたもの。

目次

劇場の年表

見沢の舞台、安岐座、公会堂、大野舞台、広岡舞台、飯沼舞台
寛政六年 (一七九四年) 見沢森で祭礼の高揚始まり
文政年間 大野舞台できる
安政六年 (一八五九年) 安岐座建築
文久元年 (一八六一年)
明治七~八年 大野舞台を移築、広岡舞台できる
明治十年 屋根修理
大正三年 公会堂大改造
大正七年 電気が灯る
大正年間に広岡舞台は売り払われる
昭和八年 明知線開通祝賀歌舞
昭和二十年 軍需工場となる
昭和四十七年 貸倉庫となる
昭和五十七年 取り壊し

間違い、不明のことが多々あると思いますので、ってみえる方は、教えて下さい。

座の変遷と地芝居

はじめに

安岐座は常設の芝居小屋ではない。村人はふつう舞台と呼び、若い人は、公会堂といっている。

無用の長物となって処置に困り、貸倉庫となり、今では取り毀しになってしまいましたが、かつては近隣町村にない立派な建物ということで、村人の自慢の種であった。

以前老人から「犬山の明治村へでも寄贈すればいいのに」と口の端にのる位である。阿木の三十代より上の人にとっては、この舞台で演じられた芝居や、その他の催物にまつわる想い出も多く、四十代・五十代・六十代と年代が上になる程、想い出は濃密になり、愛着も深いのである。

建物は、修繕・増改築等を繰返され、時代によって使われ方も異なり、その変遷をみることは、庶民の側からの歴史ともなり興味深いのでがある。

建築にまつわること

始め見沢の八幡神社東隣りに掛舞台があり、祭礼の時にここで、芝居や寄席などの催物が行われたが、新しい舞台を作りたいという村人の強い願いから、保育園建設場所に安政六年に大工仕事にかかり、同七年三月二十七日棟上げになったものである。(安政七年は万延元年・西暦一八六〇年)

はじめは、寺領組外十三組で建てたものである。組名を列記すると、寺領・藤上・野内・見沢・宮田・野田・青野・八屋砥・久須田・黒田・田中・山野田・真原・大根木の十四組である。飯沼村・広岡新田村にはおのおのの舞台が別にあったもので、飯沼・広岡が加入するのは、昭和二十一年頃とずっと後になる。

村人が自慢するだけのことはあって、大きな立派な材料をふんだんに使って建ててあり、これだけの木材を集めるだけでも容易なことではないが、これにはこんな話がある。

あの山に大きな木があると目をつけ、各組より出た世話人が、その所有者の家へ行って話をしているうちに、若者連中はすでに伐採にかかっているという具合で、良いも悪いもない切り倒してしまったという。

もちろん対価なしの寄付であるから、山持にとっては迷惑なことであったろう。

こうして切り倒した材は、若者連中が大勢集まって、かなぐりを何本も打って引き出したと今でも語り草になっている。

時代は少し前だが、広岡新田の資料に、何でもない普通の若者が数人集り狂言の真似事をしたというので、村役人が岩村藩庁へ呼び出され、きついお叱りをうけている記録がある。

住宅のつくり方にも農民は強い制限を受けていたというから、舞台を建てるについては、岩村藩へ願い出て許可をとってから建てたと思われる。

藩のお許しがでて、自分たちが使うことのできる建物を造り上げることの喜びと壮大さが、村人をして前に記したような行動に駆りたてたものであろう。

小学校建設と舞台のこと

明治八年十一月、阿木に始めて小学校が建てられたときのこと、棟上げだけはできたが屋根も葺かず造作もせず二年近くも放置されたままであった。これは建設経費捻出のことから、村内の意見が二つに割れて紛糾し工事が中断されたためである。

一方の意見は、「阿木には大きな舞台があって今は無用の長物となっているから、これを改修して学校にすればよい。」ということであり、一方では、「舞台を学校にするようなことがあれば、当時我々の大切な木を寄付して出来た舞台であるから、この木材を取り去るべし」という論である。

もめた末明治十年六月に学校はでき上がり、舞台はそのまま残ることとなったが、舞台建設に見せた村人の情熱とこの学校建築に見られる村人の冷めた対応の仕方を見ると、これが同じ村人かと疑われる。

そして一方、このような記録を見るとき、舞台はそうたびたび使われていたものではないことも知れるのである。

大正公会堂のこと

明治時代はたびたび小補修を行い維持してきたが、大正三年になって大改造を行った。

それまで板葺きであった屋根を瓦葺にしただけでなく、楽屋 (役者の控室) を継ぎ足し、天井を張り替えるなど面目を一新し、芝居に使うだけでなく、村民が多数集る会合に使用するため「公会堂」と呼ぶことにした。

この時の改造の費用はどの位だったかというと、約二千円かかっている。

二千円といっても、今では貨幣価値が違っているのでピンとこないが、五百円あれば家が一見建つ時代であったから、いかに大金であったかがわかるであろう。

次に収入・支出の概数をあげてみる。

収入の部

関係組戸数割 (資産割) 一,〇八六円九銭
銀行預金引出 三五四円三六銭
村貸付金返金 五〇〇円
公会堂会計 四十円
払物代金 一三円四八銭
財産処分 三一円九一銭
瓦代 四四円 五銭
二〇七九円八九銭

支出の部

用材費 五〇七円四十六銭
設計費 六円
瓦代 六二二円二八銭
その他材料代 一四六円七七銭
職人・人夫賃 五九〇円八四銭
役員日当・手当 一二一円九三銭
その他雑費 七九円六九銭
二〇七四円九六銭

公会堂余談三題

公会堂改造にかける村人の熱のいれ方をあらわす一例として、瓦の例があげられよう。

瓦は一枚一枚たたいてみて音の悪いものは全部はねだし、焼けの良いものばかりで葺いたという。

収入の部に瓦代というのがあるが、このはねだしの瓦を売り払ったものであろう。

入口の上にかけてあった「公会堂」という額は、矢頭伝市氏の書になるというが、この額を作り上げた職人が自分の「賛」として蛙の形を隅において額をあげておいた。

その後、公会堂で催し物があるたびに必ず雨が降るところから、きっとあの額の蛙が雨を呼ぶのだと評判になり、蛙だけ取り除いたものだと古老より聞いた。

大正七年のことである。阿木電気株式会社が発足し、一般家庭へ送電を始める前に、ちょうど公会堂に芝居があって、公会堂へだけ送電したという。

パッと公会堂に電灯がついたとき、観客は一斉に手をたたき、まるで昼間のようだと喜んだという。

公会堂が軍需工場になったこと

太平洋戦争も末期、米軍の空襲が激しくなると、名古屋にあった陸軍造兵廠が、阿木へ疎開し、公会堂や青年学校を兵器工場とした。

公会堂は平場の縁板を全部取り除き、ステージのところも切りとって、廻り舞台の装置になっていたので、半地下式になっていたものを土を運び込んで埋めて平にしてしまった。

当時、軍の命令といえば絶対のものであったから、うむも言えなかった。何の兵器をどの位作られたか近寄ることもできなかったのでわからない。

昭和十九年の夏のことであったと思うので、それから一年で敗戦となり、機械工具類は軍び去られ、鉄くずのようなものばかり中学校の運動場に大きな穴を掘って埋められたものだった。

余談はさておき、敗戦の虚脱から立ちあがった村人は、早速公会堂の復旧にとりかかった。

この数年間娯楽に植えていた人々にとって戦後はまったく自由になり、若者も戦地から帰ってくるなどして、催し物も次々と行われるようになった。

復興した公会堂

復興した公会堂は、一時期常設の映画館のようになった。これは一定の年限をきって、興行者に入札をさせ、落札した興行者の手によって娯楽の殿堂としたためである。

阿木劇場と呼ぶようになり、数日おきか、一週間めには映画があり、常時七~八分の観客があった。

昭和二十五年に、中央の名優、中村雁次郎丈を召請し歌舞伎をこの舞台で演じたことは、村人にとって大きな自慢の種であった。

中村雁次郎丈来るというので、大いそぎで大道具、小道具が新調されたものである。

また三十六粍の映写機も備えつけられ、劇場としての体裁を整えていった。

財産区管理となる

昭和三十年代に入ると、テレビジョンが普及し始め、興行がだんだん成りたたなくなってきた。そんな中で、昭和三十二年十一月に阿木村が中津川市へ合併をしたけれども、村民感情としてこの建物を市の財産とすることを許さず、あくまで区有のの持ち物であるとした。村役場がなくなり、財産区が設定されたので、公会堂の維持管理ものこの財産区に移った。

昭和四十年代に入ると、小学校に屋内体操場が建ち、大きな集会はこの屋台で催されるようになり、四十七年には区民待望の公民館が建築された。

この頃になると、公会堂のいたみ方もひどく、使用する必要性もなくなってきた。(建物の維持管理が財産区に移ってから、毎年一世帯二百円の維持費を集め、維持に当たっていた。)

往年の名優だった人々によって、阿木歌舞伎保存会がつくられているが、この人達の助言や指導、応援によって、青年たちが〝お名残素人大歌舞伎〟を想い出深い阿木劇場で一昼夜にわたって行った。

そして遂に貸倉庫に明け渡すことになったのである。

昭和四十九年三月財産区も解散となるに及んで必然的に中津川市へ移管される羽目になった。

地歌舞伎については、資料として残っているわけではないので、人々の語り草になっているものをたびたび聞く位で、断片的であり、正確なものにはなり得ない。

よく聞く話としては、昭和八年の明知線開通祝賀会に行われた芝居のことである。

このときは各組が競い合って芸題をだし、二十幕にもなった。一昼夜に六幕位消化しても三日余りかかる。せっかくここまでやったから、もう一度繰り返そうということになり、延々七日間の上演になった。

観客の方もまた熱にうなされたように、朝起きるとたくさんのわりごで弁当を詰め、いそいそと隣近所を誘い合って出掛ける。

ときには遠くの親類縁者を招き寄せて見物をさせる。年寄りや子供・馬などがいる家はだれか一人帰り、それぞれ食わせておいて、又戻ってみるという具合である。

この年は雪が多く、家々の屋根には雪が積もっていたのに、舞台の屋根だけは人々の熱気でとけてしまったという。

伎芸人鑑札と仮設劇場許可

地芝居は毎年毎年きまって行われたものではなく、何かの節というか、きっかけがあってやられたものであるが、その理由は民衆の側ばかりでなく、外からの規制もあったことを最近知らされた。

大衆の面前で芸を売るものは、たとえそれが素人であっても鑑札がないとできなかった。俳優は俳優の鑑札がなければならず、歌舞音曲すべて同じで、村役場が発行する鑑札を持った人だけに限られていた。

また、常設劇場以外での催し物のときは、勧進元が村長に願い出て、村長より所轄の警察署長に仮設劇場許可を申請し、警察署長の許可書が下りて始めて劇場を開くことができたものである。

これは昭和二十年まで続いたのである。

村人も誰もが歌舞伎を愛好するという土壌から、素人であっても多くの名優が育ち、想い出の名場面が生れた。

それは現存する人もあり、故人になられた方もあるが、そしてその人達の子や孫がまた芸達者であるというように、ちょうど血すじのようになって受け継がれたきた。

このことはひとり阿木のみにとどまらず、この地方一帯の伝統となっている。

一世紀余の安岐座が、さまざまな要因によってたどった消長と、阿木気質のようなものを少しでもお汲み取りいただければこんな幸せなことはない。

公会堂と名工〝原鶴吉〟

小栗 義雄

阿木のシンボル公会堂。村中を心身楽しませ、魅了させた公会堂は、皆んなに惜しまれて昭和五十七年六月遂に姿を消した。

万延元年上棟、文化初年完成したと云う安岐座、後の公会堂。

昔農神風神様がものすごく大賑いで、塞の神神社辺で夜を明かし、参拝する信者は実に大変な人だったと云う。

当時の若い集百寄合いの上安岐座建設決定、各地区の巨木名木の寄進を御願いする頃には切り倒されていたと云う。実に立派だった。

以後風神様参拝者は劇場満員、ヒヨンコに酒汲み交し、芝居狂言を見て夜の明けるのを待って参拝に。

昔の事故、また費用の関係もありササ板で屋根が葺かれていたので、大風等の場合屋根の守には大変だったと思はれます。

大正三年甲寅年改修され瓦葺きになった。

丁度其年から劇場名だと劇場税が課せられることになり、公会堂と命名した。

時の村長西尾資英氏で、その時から芝居は春秋二回、一回三日で、活動写真、浪花節等出物は制限なしで出発。唯一の娯楽の殿堂としてまことに懐かしく楽しさ一杯だったことは忘れる事は出来ない。

其の頃から年二回の芝居が開幕すると必ず雨が降り、そんな事が何年も続いた。

そこで誰云うとなく次の様な話が村中広がった。

公会堂の改修にあたり、大きな舞台に誠にふさわしい大きさ、取合い申分のない『公会堂』の額が上げられた。

公会堂の字は、当時小学校の先生〝矢頭傅市先生〟。黒字に白のシックイで額を塗り上げたのは左官業〝原鶴吉氏〟。

公会堂と書いた左上に大きなヒキ蛙一匹、四ツばいに塗り上げられ実に見事な出来栄えだった。

「其のヒキ蛙が雨を呼ぶに相違いない」と異口同音村中そんな話で評判、遂にヒキ蛙は取り去られて、今だに其の跡が残っている。其の後晴天が続いたと、実に不思議な事実であった。

今考えるともう二~三点、何処かにそんな作品を残して、若し雨を呼ぶ様な事があったら、天下の名匠左勘五郎と肩の並ぶ名工〝原鶴吉〟だったのに実に残念至極。

今に伝る『公会堂のヒキ蛙と原鶴吉』後世に伝へ度い『原鶴吉とヒキ蛙』。

西尾 浪子

終戦の高配した村民を一堂に集め、地芝居を踊る人、見る人、笑顔で和やかな風景こそ今以って思い出します。

近郷に希な誇りを持った公会堂が取り除かれる事になり、一寸さみしい気持ちになりました。

時代の移り変わりは言う迄も無く、テレビ等の普及も大きく、だんだん楽しみを求める場が変わって来ました。でも懐かしく思い出される子供芝居等、もう今では大きな子供さんの親となって見えます。

義太夫の語りに合わせて手を振りかざし、舞台一ぱいに声を張り上げての熱演ぶり……… もう見る事は出来ません。でも其の後地に保育園が新築され、姿形は変れども、次代を背負う可愛いい子供の殿堂となる事は意義有り、喜ばしく思います。

遠からず流れ出る唄声嬉々として遊べる日の来る事を願う区民の一人です。

西尾 富子

公会堂、昔は阿木で一番大きな建物。村の人達の寄付で作られた。

木・道具を沢山出した家 (柱・かもい等) は特等席に座らせて貰うことが出来た。

元は板葺屋根だったけど、大正の始に瓦屋根に替えられて、皆の注目の的になって芝居や映画がよく開かれた。

けやきの通し柱が太くて見物の邪魔になるとて、鉄の柱に取り替えられたこともある。

いい役者といえば、中村雁次郎が来て上演した時等大入りだった。

太平洋戦争中には、座敷のしきりを取りはずして軍需工場 (名古屋陸軍造兵廠千種製造所の疎開) にしたこともあった。

時代の流れとはいえ、切角の大きな古い建物を取り壊したのは残念でした。

村の歴史を秘めていただろうあの巨大な舞台。

公会堂

飯沼 K子

去年 (昭和五十七年) の九月の初め頃かと思いますが、恵那から阿木線は通行止めでしたので、広岡からバスで農協へ行きました。

今頃はよく通行止めになると思い、徒歩で帰る途中公会堂が取りこわされていました。

公会堂といえば私達阿木の人間にとっては、どこの部落へ行っても立派で大きくて自慢の舞台でした。


素人芝居のある日など、学校帰りによくのぞいて見たものでした。

するめの焼けるにおい、白粉おつけた男の人、わりご弁当で近所の人達と芝居見物に行った幼い日のことが思い出されました。

なつかしいと同時に時代の波におし流されて行く公会堂が哀であり、長い年月ひこりおかぶり、阿木の歴史を無言で見つめて来た公会堂にさようならとつげて家路へとむかいました。

農村に誇る憩の殿堂 阿木公会堂の想い出

花田 政夫

時代の変遷に伴い阿木公会堂が取壊されてしまった。欅づくめの頑丈な建物で有名であった。

阿木歌舞伎の舞台として多くの狂言役者を育て、戦前まで村民の最高の憩いの場であり、村祭あ豊川様の余興も此処で行われていたし、時々映画 (活動写真) も上映された。

私の青春時代は阪東妻三郎、月形竜之介や栗島すみ子、田中絹代などの主演に憬れて、白黒の写真を説明する弁士も堂に入ったものであった。

西の花道を六法踏んで退場する役者の姿が懐しく、今でも瞼に浮ぶ。

私が阿木尋堂高等小学校当時の恩師であった書道の達人、黒田出身の矢頭伝市先生の揮亳に成る『公会堂』の大看板は、阿木公民館に保管されて有るので、古の想い出を永遠に物語ってくれるでしょう。

村芝居

武田 俊枝

公会堂といえば歌舞伎芝居の盛んな頃が思い出されます。

私達の若い頃は今と違って娯楽も楽しみも少くない時代、芝居見物は村の人達にとって何よりの楽しみだったと思います。

毎年春と秋の二回の芝居はいつも満員で、何か村中が浮き立つような感じでした。そして芝居と云えば割籠の弁当も思い出のひとつでしょう。混み合う座席で広げる割籠のうれしかった事など誰も忘れられない事だと思います。

花道で六法を踏む役者の顔、愛らしい子役の台詞、長い幕合いの見物席のざわめき等々さまざまな情景は、遠い記憶の中で今も消えることなく古い人の心に残っていることだと思います。

時代の変りと共にすべてが変わった今、公会堂の建物は見られないけれど、存在したことは阿木の歴史の一頁に残るでしょう。

阿木の発展と想い出

秋山 初子

公会堂で一番に思い出すのは、子供の頃祖母たちについて芝居見物です。

学校帰りにカバンを持ったまま、カバンを風呂敷に包んで祖母達と早くから場所取りに行ったものでした。

楽しみなのは「ワリコ」弁当でした。今の様なおかずではなく、里芋のにころ、トウフ、卵を焼いたものですが、其れがとてもおいしかった思い出です。

地元狂言といえば三日間位はあったものでした。

婦人会になってからは敬老会も公会堂で行った時もあった。

私達も花笠音頭や木曽節等踊ったものでした。今も写真が残っています。

戦争が始まって軍需工場になり、家にも工員さんを留めたものでした。

立派な公会堂も何時迄も残して置きたいけれど、文明文化の発展には仕方がなく、とうとうこわされてしまい、後には立派な保育園が出来つつある。

阿木村も中津川市に合併し、道路も広くなり、中学校新築工事もだんだんと進められています。

阿木川ダム建設現場へ見学に行って、余りの広大な大工事にびっくりしました。

小さな田も耕地整理で大きな圃場になり、道路も広くなり益々発展してゆく阿木の地を、健康に気を付けて中学校、阿木川ダムの完成が見られる様長生きして行きたいと思います。

噫々公会堂の想い出

三宅 幸枝

幼い頃、公会堂での素人芝居見物には父母につれられてワリゴ弁当を持参、それの又美味しいこと。今では味わえんものとなりました。

東の方には出店を出す場所があり、料理屋まで出張せられにぎわしく、素人芝居となると阿木全域の人々が集まるので、屋内だけでは足らずに外まで屋根をして出店がならび、あの頃がほんとうに懐しい。

学校時代には一年に一度学芸会を公会堂で行い。青年団でも弁論大会等いろいろ行事を行い。

婦人会となりては敬老会の余興として踊りを両花道から踊り、素人芝居は云うに及ばず誰でもが無料程度で使用できたものでした。

活動写真が映画となり、劇団等は時々来ました。中でも芝居は中村雁次郎さんまで来て踊って下さり、雁次郎さんが「立派な舞台である」とほめて下さったと聞きます。

田舎の劇場としては大きく両花道があって、中津の文化会館よりは立派な公会堂であったと思います。昔にしてはよくもあのような立派な公会堂を建設されたものだと今更ながら感腹すると同時に文化財として残されなかったことを悔いてやみません。

保育園の後に多目的研修センターが出来るそうですが、安い料金で阿木の人誰もが使用出来て、安意に利用出来るやうに切に切にお願い致します。

公会堂の想い出

M子

この草深い阿木の山村で長い間村人の数少ない娯楽の殿堂として、その威容を誇った公会堂が寄る年波には勝てずとうとう姿を消した。

想い起こせばなつかしい想い出が次から次と浮んで来る。

明治生まれの私達の一番古い想い出は、幼い頃珍しくその年は姉達が学芸会を公会堂で開催と云うので、父について見に行った。

廻り舞台がぐるりと廻り、姉達五六人が読本の朗読を始めた。その中の一人きりがチョコンと座ったなりで読んで居た。子供心に不思儀に思って後で聞いたら、廻り舞台で目が廻って立って居られない子で先生が貴女だけは座ったなりで読みなさいと云われたそうだ。その位廻り舞台の格好も良かったものだ。外の事は忘れてしまったのに妙にその時の光景だけ何故か今もはっきり覚えている。

お芝居も私達子供の頃はまだ電燈がなくて、日が暮れると裏方の小父さん舞台正面にぶら下がって居る大きなランプに三つ四つと火を入れて行かれるとパッと役者さんの顔が浮き上がって奇麗に見えたものだ。今思へば可笑しくなる様だけど結構にその時分はそれで明るく感じたものだ。

春と秋の二回必ず歌舞伎興行があり、その時は年増のおかみさんも若嫁も皆、村に二軒あった髪結いさんへ暗い中から出掛けて番を待って、大きな丸髷に結って貰い、わりご弁当を一背負して誰も彼も出掛けたものだ。

又、活動写真と云って居た映画も時々あり、その日は村の道を楽隊がブカブカドンドンと客寄せの音楽を流して歩くので見に行き度くてたまらず、一生懸命頼んで行かせて貰い坂妻や高木新平等の活劇を息をころして見入ったのもなつかしい想い出だ。

雁次郎丈の来演と云うので、昼の部は父母が、夜の部は私達若い者と代わって行った事、雁次郎丈も田舎にしては珍しい踊り良い立派な舞台だと誉められた等。

又、婦人会で一度敬老会の余興に素人歌舞伎を御願いした時、東野の役者さんはもう阿木の舞台を踏むこともないと思っていたのに声をかけて下さったと云う事は何と有難い事だ、もう嬉しくて嬉しくて御礼を持って来ずには居られませんと云って、金一封を反対にあちらから差し出されて誠に恐縮した事もあった。その時だったか文化部の方達が三~四人腰元の役で飛び入り出演されて美しかった事。

婦人会の発表会で、それぞれ皆さんがとても上手に研究発表された事。毎年毎年子供の学芸会は欠かさず行った事。阿木在住の役者さん達の素人離れのした素晴らしい演技に惜しみない拍手を送った事等々、想い出せばきりが無い。

此の想い出一杯つまった安岐座とは時代の流れと共に永久にお別れとなったものの、次の世代を担う大切な子供達が近代的な立派な保育園で心身共に健全にたくましく育ってくれる事を思えばこの上ない喜びである。

公会堂の思い出

西尾 とみ

明治時代か又はもう少し前の頃のことか、二百十日の頃ともなると三河、尾張の方面より笠にゴザ姿のおまいりの郡が三々五々続き、そして阿木座いわゆる公会堂を宿にとり、地芝居を見て帰ったと言う話を当家へ来て父に聞きました。こんな様子を想像して私は公会堂の貴重な思い出の一つにしています。

全容は東西に出入口があり、西口の方は木戸口と云って入場料を払う所があり、興行の時は一畳位の所に二~三人の番人が居ました。

東の方は出口で、その奥右に下足があり番人も居り、見物席は広場が四つに支切られ、中場が東西両方と高場と云う二階が東西に有り、正面は見付高場と呼んでいました。

その前に映写室も出来ていました。

両花道も広く立派なのが上下(カミシモ)二通り。舞台は広く中央に廻り舞台と云って此の近所には少ない設備があり、人力で廻していた様です。

チョボは上下(カミシモ)二階であり、出語りも行なうことがありました。

中茶屋もあり、幕間に鉢巻姿の小父さんの威勢の良い声で売り歩く姿、たちこめるタバコの煙、煙に乗って香ばしいスルメの香など幼い頃のなつかしい思い出の一つです。

戦時中は矢も楯ならず一時軍需工場になりましたが、戦後又民間に経営が移り、その頃は良い役者も度々来演をされ、先代中村雁次郎丈、市川八百蔵丈も来演した折、「この様な立派な舞台は珍しい、踊りがいがある」と云って歓び誉めて下さったということを聞きました。

昔から各行事が行われて来た舞台で、三月六日の敬老会の時は小学校の学芸会をしたことが思い出です。

何の楽しみとてない山村の舞台が開けば待ってましたと多くの人が出かけて楽しみ語らうのでした。

あの立派な柱、張、今も目に残っていますが、時代の移り変わりは如何様にもならず、昔からの旅人、村人、若人等の思い出をそのままに姿を消してしまいました。

私は公会堂の姿が無くなるのが本当に残念でしたが、日進月歩飛躍の今日の幼い児等の殿堂となるのを見て嬉しいことと思い、前途を祝福しています。

舞台の想い出

加藤 ??ゑ

春の植付から秋の収穫まで現在とは違い、足踏式の稲投機以外は総て手作業で、一家総出のそれこそ猫の手も借りたい大忙しの重労働でした。そんな生活の中で農閑期の村芝居は村民挙っての行事……のようでした。

定蔵サンの触太鼓が阿木の山野に山彦する頃、村内各部落の名(迷)優、珍優の出演とあって、前人気も最高で村内は勿論、近郷近在の親類縁者も泊り込みで、各家庭は竹輪、コンニャク、豆腐、竹の子、里芋等の煮付に銀飯を割子に詰め、朝から舞台目指して押し寄せたものです。

しばしの幕間にも仲店の S サン、N サンの威勢のいい「みかんにスルメにキャラメル」、「ハイ、おでんはいかが」の掛声と満員の吐息とざわめき、異常な雰囲気の中、荒莚の上で開いて喰べた割子弁当の味は又格別であったように思います。

芝居の終わった翌日からは次回の上演を楽しみにしつつ、それぞれ家業に励むという工合で、舞台はいろいろな意味で村民の活力源でした。

そんな舞台が時代の流れとによる年波には抗し得ず、今般取壊され非常に残念に思いますが、答辞に培はれた純朴さと義理人情、人と人との絆だけは絶やさないようにしたいと念願しています。

想い出

西尾 美智子

公会堂の想い出

秋山 ふみ

私はいつ建ったものか分からないけれども、春と秋の二回は家の人達に連れられて芝居を見に行きました。大きな建物で大きなけや木の柱がありました。一杯に入ったら千人も入れそう。機械もない時代にどうして作った事でしょう。

平場、中場、高場とあって、両方に花道もあり立派な舞台でした。歌舞伎の時などいい場所で見たいので朝早くから木作りのわりご弁当を持って行き、それをもらって食べるのが何よりの楽しみでしたが、昭和十二年七月支那事変、大東亜戦争は長びき 公会堂も軍需工場と変わってしまいました。十年も続いた戦争と修理人もなく荒れはてて、私達にとっては遠き昔の思い出となってしまいましたが、時代が変わって公会堂跡に保育園が建設されました。

公民館も出来、高令者大学も出来て色々の教室もあり、老人の為にゲートボールの競技も出来て楽しい日々が暮らせます。

現在の老人は幸せです。本当に感謝の気持ちで一杯です。私達老人も健康に注意して阿木の変貌を見たいものです。

昔の飯沼村・飯妻座をしのぶ

稲川 きくゑ

私は山岡町で生まれ、飯沼へ来ましたので古い事は知りません。近所の御年寄りの方に尋ねましたらその方の話では……

子供の時「染五郎という役者の芝居を見た」と話して下さいました。その方の年を数えてさかのぼると明治三十九年か四十年ほど前かと思います。

舞台の建った時はおよそ明治の始ではないでしょうか? 舞台は大きな草葺き屋根、表間口は七間、奥行七間位で、柱は二尺の桧柱、廻り舞台で、花道は芝居のある時に造り、回りはむしろをつるし、見物人は庭にむしろを敷いて見ました。それが飯妻座でした。

私が来てからも二~三回ありました。その後昭和二十四年に壊わし、次年二十五年に新らしい社務所となりました。

今日ある物は飯妻座と書いた幕だけです。年に一度の飯沼敬老会の時に出して引きなさいます。今でも昔をしのんでいるものです。

飯妻座の思い出

西尾 かね

舞台が暗くなると八分芯とか云う当時一番大きなランプを七個ほど付けて明りを取り、お芝居をしたそうです。

今思えば、横山のおじさんは私より十六才も年上で、私がハナをたらして芝居を見ているのに、横山のおじさんはきっと面白いお芝居を見て満足なさった事と思います。横山のおじさんは昔の事が何んでも分かりそう。おそばへ行ってももっと沢山色々と聞いたいと思いました。

飯沼神明神社の大杉と飯妻座

可知 まち

毎日神明神社の大杉を眺める時に、私どもは聞たい事、語りたい事が沢山ありますけれども、大杉はただただ何ともいわずに何百年と生きつづけ、昔から飯沼の人々の替わり様、又時代によって色々な出来事を見続けた事でしょう。何回かの台風にもめげず、大雪にも大きな枝で受け止めて、しっかいrとした姿を変えずに生き続けて居ります。

これを仰ぎ見る時、昔あったものが消え、新しく出来たものを見下している様は何といっても飯沼の宝と仰がねばならぬと思います。

昔、村芝居の盛んな頃には草葺屋根の舞台があって、村中の人々が一年中の一番の楽しみとして、近所、親戚の人々と朝早くから見物に出掛けて楽しまれた事でしょう。

今はただ昔の藍染の幕が一張、飯妻座と染めぬかれたのが有るのみです。

此の頃は、他町村から子安観音様へお参りに来られる方々が立派な杉の大樹だと仰ぎ見て、写真をとらせてとよく申されます。

大杉にこれからも長く長く生き続けて、人々に仰ぎ見られる事を祈って居ります。

神谷峯太郎方芝居

片桐 専蔵

明治四十年四月二十八日、塞ノ神神社祭典の時神谷峯太郎方で芝居が行われたそうです。

蚕室は楽屋、蚕室前に掛舞台にして役者は松本みとり (当時八十才位、女形)、市川玉十郎 (後松本錦昇と改名) だったそうです。

神谷峯太郎住宅、蚕室は大正三年頃壊されたそうです。

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