利用者:Torao/ノート/濃飛両国通史

提供:安岐郷誌
< 利用者:Torao(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(上巻第二十章 王朝の文物駅伝)
(上巻第二十章 王朝の文物駅伝)
15行: 15行:
 
<blockquote class="quote">
 
<blockquote class="quote">
 
恵那郡の地、人煙未だ多からざる際、駅伝の負担重くして、駅子の逃亡相つぐ。郡に良宰ありと雖も尚且つ治績を見難し。国司最も苦心するところなり。されば斉衡二年更に國解を上り、賞を懸けて復興を計る。曰く「惠那郡阪本驛は信濃國阿智驛(伊那郡會地村) と相去ること七十四里 (今の十里十町)、雲山疊重し、路遠くして坂高し、星を戴て早く發するも夜を犯して晏く至る。一驛の程も猶數驛に{{ruby|倍|マサ}}る。驛子の負荷常に遞送に苦しみ寒節の中には、道にて死するもの衆し。朝廷之を悲み殊に恩貸を降し永く驛子の祖調を免許す。又去る承和十一年擧郡三年の復穎 (免祖) を給ひ無限の恩を施すと雖も、徒に公家に費し曾て息ふ所無し。前任の良宰治方を展ふと雖も猶興復し難し。況や復愚吏に任するに於ては更に何の術をか施さん。今彼の郡の課丁を檢するに總して二百九十六人なり、就中''二百十五人は驛子''たり、八十一人のみ調庸を輸す、之を諸郡に比するに衰斃尤も甚だし。望み請ふらくは諸郡司の富豪恪勤なる者を擇び、募るに五位を以てし三年中を期して件の郡を治めしめん、謹んで官裁を請ふ」と。勅して請に依らしめ給ふ。後世伝馬役にて郷村披露せしと同じ。又以て当時恵那郡の事情を察するに足らん。
 
恵那郡の地、人煙未だ多からざる際、駅伝の負担重くして、駅子の逃亡相つぐ。郡に良宰ありと雖も尚且つ治績を見難し。国司最も苦心するところなり。されば斉衡二年更に國解を上り、賞を懸けて復興を計る。曰く「惠那郡阪本驛は信濃國阿智驛(伊那郡會地村) と相去ること七十四里 (今の十里十町)、雲山疊重し、路遠くして坂高し、星を戴て早く發するも夜を犯して晏く至る。一驛の程も猶數驛に{{ruby|倍|マサ}}る。驛子の負荷常に遞送に苦しみ寒節の中には、道にて死するもの衆し。朝廷之を悲み殊に恩貸を降し永く驛子の祖調を免許す。又去る承和十一年擧郡三年の復穎 (免祖) を給ひ無限の恩を施すと雖も、徒に公家に費し曾て息ふ所無し。前任の良宰治方を展ふと雖も猶興復し難し。況や復愚吏に任するに於ては更に何の術をか施さん。今彼の郡の課丁を檢するに總して二百九十六人なり、就中''二百十五人は驛子''たり、八十一人のみ調庸を輸す、之を諸郡に比するに衰斃尤も甚だし。望み請ふらくは諸郡司の富豪恪勤なる者を擇び、募るに五位を以てし三年中を期して件の郡を治めしめん、謹んで官裁を請ふ」と。勅して請に依らしめ給ふ。後世伝馬役にて郷村披露せしと同じ。又以て当時恵那郡の事情を察するに足らん。
 +
</blockquote>
 +
 +
== 上巻第二十三章 承久の合戰 ==
 +
<blockquote class="quote">
 +
一條宰相信能は曩に義時追討の宣旨を下されしとき院御所に候し、次て官軍發向の際一軍に将とし宇治川なる芋洗に出陣す。戦破れ歸洛せしを、武家の申請により六月二十四日、六波羅に下され尋て張本の卿相として洛中に斬らる可かりしを、特に義時の旨あり、遠山左衛門尉景朝に預けられ、七月当国に下著し、八月十四日遠山荘に於て刎ねらる、年三十二。(吾妻鑑、前田本公卿補任、皇代暦)
 +
 +
〔岩村神社〕恵那郡岩村町字相原に在り、従三位参議左中将信能卿を祀る。卿この地に斬られたりしか、後人その墓に就きて小社を建て、その霊を祭り若宮神社と称せり。明治十三年 明治天皇中山道行啓の途、特に片岡侍従を差遣し祭粢料金拾圓を賜ふ。
 
</blockquote>
 
</blockquote>

2009年11月11日 (水) 21:48時点における版

上巻第十八章 祖神奉祀

【恵那郡】延喜式三座 (美濃國神名帳七社)

  • 坂本神社 從五位上清坂明神歟。今の坂本村大字茄子川坂本に在りしも、延文二年三月野火の為消失せり。因て旧蹟に式内坂本神社てふ石標を建つ。祭神不詳、或云大山祇命歟。大日本史神祇誌には坂本村十二奏社を充てたり。
  • 中川神社 從五位上中津川明神 村社中川神社 中津町字北野鎮座。旧時白山社と称し、菊理姫命・伊弉册命・木花開姫神を祀るといふ。
  • 惠奈神社 從五位上惠奈明神 郷社惠那神社 中津町字惠那山頂上鎮座。祭神未詳。里伝に伊弉諾・伊弉冉二神を祀るといふ。
從四位上阿氣明神 阿木村字阿木字大門前、郷社八幡神社歟
從五位上長窪明神 静波村杉野字長窪、村社八幡神社歟
從五位上加上(カヲレ)明神 中津町字川上、恵那神社
座地末考 從五位上雁栖明神

上巻第二十章 王朝の文物駅伝

恵那郡の地、人煙未だ多からざる際、駅伝の負担重くして、駅子の逃亡相つぐ。郡に良宰ありと雖も尚且つ治績を見難し。国司最も苦心するところなり。されば斉衡二年更に國解を上り、賞を懸けて復興を計る。曰く「惠那郡阪本驛は信濃國阿智驛(伊那郡會地村) と相去ること七十四里 (今の十里十町)、雲山疊重し、路遠くして坂高し、星を戴て早く發するも夜を犯して晏く至る。一驛の程も猶數驛に(マサ)る。驛子の負荷常に遞送に苦しみ寒節の中には、道にて死するもの衆し。朝廷之を悲み殊に恩貸を降し永く驛子の祖調を免許す。又去る承和十一年擧郡三年の復穎 (免祖) を給ひ無限の恩を施すと雖も、徒に公家に費し曾て息ふ所無し。前任の良宰治方を展ふと雖も猶興復し難し。況や復愚吏に任するに於ては更に何の術をか施さん。今彼の郡の課丁を檢するに總して二百九十六人なり、就中二百十五人は驛子たり、八十一人のみ調庸を輸す、之を諸郡に比するに衰斃尤も甚だし。望み請ふらくは諸郡司の富豪恪勤なる者を擇び、募るに五位を以てし三年中を期して件の郡を治めしめん、謹んで官裁を請ふ」と。勅して請に依らしめ給ふ。後世伝馬役にて郷村披露せしと同じ。又以て当時恵那郡の事情を察するに足らん。

上巻第二十三章 承久の合戰

一條宰相信能は曩に義時追討の宣旨を下されしとき院御所に候し、次て官軍發向の際一軍に将とし宇治川なる芋洗に出陣す。戦破れ歸洛せしを、武家の申請により六月二十四日、六波羅に下され尋て張本の卿相として洛中に斬らる可かりしを、特に義時の旨あり、遠山左衛門尉景朝に預けられ、七月当国に下著し、八月十四日遠山荘に於て刎ねらる、年三十二。(吾妻鑑、前田本公卿補任、皇代暦) 〔岩村神社〕恵那郡岩村町字相原に在り、従三位参議左中将信能卿を祀る。卿この地に斬られたりしか、後人その墓に就きて小社を建て、その霊を祭り若宮神社と称せり。明治十三年 明治天皇中山道行啓の途、特に片岡侍従を差遣し祭粢料金拾圓を賜ふ。
個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
Sponsored Link
ツールボックス
Sponsored Link