可知貫一翁顕彰碑

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2009年6月20日 (土) 16:28時点における版

可知貫一翁顕彰碑(かちかんいちおきなけんしょうひ)飯沼宮ノ根子安堂の詰め所左に建てられている石碑。

可知貫一(かちかんいち) (1885-1956年) は飯沼の鞍坪の橋[MAP]の近くの家に生まれ旧東京帝国大学農科大学農学科を卒業し八郎潟(はちろうがた)干拓を構想、国営で最初の巨椋池(おぐらいけ)干拓事業を初代所長として遂行し、現在まで続く国営土地改良事業の基礎を作った。全国に見られる円筒分水工は博士の案とされている。なお、碑にある八郎潟干拓は、戦後になってオランダの技術協力により実施された。阿木周辺地域でも灌漑事業として 1924年 (大正13年)保古の湖を作っている。

宮ノ根 可知貫一翁顕彰碑01.jpg
可知貫一翁顕彰碑

可知寛一翁は明治十八年一月旧阿木村飯沼父与一母あさの長男に生れ岐中六高を経て東大に学ひ農業土木を専攻して農學博士号を授与さる。又農商務省技師として巨椋池八郎潟等の干拓を主宰幾多国家的事業指導其他近郷の貯水開拓にも尽瘁さる。又東大京大に教鞭をとし後進を育成され汎大平洋會議の日本代表として出席されるなど多大の業績を遺され 功により正三位勲三等に叙せられた。

昭和三十一年四月九日自宅に於て七十一才の天寿を全うされた先生は資性謹厳私心なく接する人をして思はず襟を正さしむる崇高な人格者であった。郷党は先生の遺徳を偲び茲に碑を立て後世に傳へるのである。

昭和四十五年五月吉日 発起人 中津川市阿木地区老人倶楽部 連合會代表
吉村 義? 西尾 源?

資料撮影 09/02/21 [1][2]

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