天保の丹羽瀬騒動
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2009年6月19日 (金) 02:29時点における版
目次 |
背景
1824年 (文政7年/江戸後期)、岩村藩の財政は極度に悪化していた。この頃の岩村藩は:
- 幕府への上納金の年延べ、拝借金を御願い。
- 藩内領民へ古田、新田、新々田それぞれ石高に応じた追加貢賦の願い (非強制)。
- 必要に応じて村々の神社森を御用材として伐採。
などを行っており、財政政策として御神木すら手を付けようという困極まった状況であった。槙平の開墾が同年に始まったのも財政再建のための事業と思われる。
岩村藩 文政の改革
1826年 (文政9年/江戸後期)、弱冠21歳で
- 新田の開拓、養蚕の振興、桐・桑・杉・茶・栗の苗生産などの推奨。
- 京都や尾張、三河の職人を呼び寄せての絹織物業・窯業の振興。
- 領民への極端な自給自足の強制。
- 1827年 (文政10年/江戸後期)、家臣へ報酬として与える米を借り上げ。
- 1828年 (文政11年/江戸後期) 秋、二十七会講 (無尽) の開始。
- 1829年 (文政12年/江戸後期)、代官橋本祐三郎を処刑 (文政の阿木騒動)。
- 1830年 (天保元年/江戸後期)、慶安御触書、六諭衍義大意の木版を配布し、領民へ倹約と勤労、封建道徳を奨励。
このような厳しい改革の功あって藩の財政も次第に回復して行った。またこの改革によって阿木・飯沼を含む岩村藩内の農家に養蚕が広まり、岩村城下で昭和初期まで続く絹織物産業が発展するきっかけともなった。
改革の顛末
清左衛門の改革によって藩財政もそれなりに回復していったが、程なくして天保の大飢饉 (1833年/天保4年)、翌天保5年の江戸藩邸の類焼、さらに天保7年の大凶作などに見舞われた。これに伴う不景気で陶器や木綿、絹織物などにおいて大量の在庫を抱える結果となり、織物事業で24,000両もの巨額な負債を抱える事となった。財政改革は完全に停滞してしまった。
加えて折からの保守派閥からの反発や、領民の不満、減俸された家臣の不満がこの不況を機に爆発。1837年 (天保8年/江戸後期) に藩内52村連名で21ヶ条の嘆願書を上告し、もし聞き入れられなければ清左衛門宅を襲撃しようと誓った。藩主はこれを受け入れて丹羽瀬清左衛門は失脚、蟄居の身となり、これで岩村藩の文政の改革も終了した。
清左衛門はこの騒動の一年半後となる 1839年 (天保10年/江戸後期) 2月4日に51歳で没した。
四方山話
- 1889年 (明治22年)、大将陣下の脇道に浅見与一右衛門らによって「格庵丹羽瀬先生紀功碑」が建てられている。
参考資料
- 文政の阿木騒動と代官橋本祐三郎
- 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100