新杜

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[[File:新杜01.jpg|thumb|新杜]]
 
[[File:新杜01.jpg|thumb|新杜]]
{{ruby|'''新杜'''|しんもり}}は広岡八幡神社を中心とした鎮守の森。広岡公民館と二分団の消防設備が併設されており、二分団のイベント事は大抵ここで行われる。
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{{ruby|'''新杜'''|しんもり}}は[[広岡八幡神社]]を中心とした鎮守の森。[[広岡公民館]]と二分団の消防設備が併設されており、二分団の会合やイベントは大抵ここで行われる。
  
 
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広岡新田が大野と別れてからもしばらくは[[大野八幡神社]]を氏神としていた。広岡八幡神社が勧請されたため、[[大野杜]]に対する新しい鎮守の森という意味で新杜と呼ばれるようになった。
 
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== 広岡公民館 ==
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{{ruby|<strong>広岡公民館</strong>|ひろおかこうみんかん}}は会合やレクリエーションなどを行うための二分団の施設。組の寄り合い、歌や踊りの練習、選挙の投票所など様々な目的で使用されている。
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== 開拓者慰霊碑 ==
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<strong>開拓者慰霊碑</strong><map title="開拓者慰霊碑" lon="137.487875" lat="35.404778"/>は広岡八幡神社の鳥居横に立てられている石碑。碑文によれば {{年号|1961}} に建てられたものである。大野と広岡の開拓の略歴が刻まれている。
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<hibun photo="09/02/21=新杜開拓者慰霊碑02.jpg,新杜開拓者慰霊碑03.jpg,新杜開拓者慰霊碑04.jpg,新杜開拓者慰霊碑05.jpg">
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[[File:新杜開拓者慰霊碑01.jpg|140x140px|right]]
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<div>'''大野廣岡開拓由来記'''</div>
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 廣岡ハ太古天神 ノ生レ給ヒシ池ト 伝ヘソレヲ祀ル血洗 神社アリ 古ハ従 四位上阿氣明神或 ハ神明神社ト云ヒ シトモ伝フ 中古 ハ大野村ト称シ大 野八幡社ヲ氏神ト セリ 天文中土岐 右衛門守一族流離 シ来リ右衛門平ヲ 開ケリト云フ 然 ルニ元亀二年(四百年前) 大洪水山崩レノ為 全村殆ト埋没シ僅 十三軒ト一部耕地
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ヲ??残?タ
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 近世ニ至リ領主保護ノ下 ニ再ヒ開墾シテ大野新田ト 称セリ即慶長九年岩村藩主 松平和泉守家乘公代ニ開拓 ヲ初メ慶安年間ニハ名主加 平次ヲ中心ニ諸國諸地ヨリ 集マリシ人々ニヨリテ着々 其功ヲ進メ戸口モ増シ小字 モ大野右衛門平大柳廣岡等 新田部落ヲナスニ至レリ 青野村百姓弥兵次ノ移リ来 リシモコノ頃ナリ カクテ 丹羽氏純公代寛文三年ヨリ 延寶六年迠十六年間新田検 見年貢ヲ納メタリ同七年御 検地アリ新田村高百五十八 石トナリ家持百姓三十九軒 庄屋史郎兵衛ナリ
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 元禄十六年松平乘純 公岩村藩主トナルヤ大 野村十五軒古田九十二 石ハ飯沼村枝郷トナリ 大野新田村五十六軒百 五十八石ハ廣岡新田村 ト称シ阿木村枝郷トナ ル 但シ両村共モ大野 八幡社ヲ以テ氏神トシ タリ 其後享保七年御 検地アリ家持百姓六軒 増加セリ之ヲ寅新田ト モ云ヘリ幕末ニハ十 六軒トナル 明治ニ至 リ大野廣岡ハ再ヒ合同 シテ阿木村ニ編入サレ 後中津川市に合併
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 現在大野廣岡ノ戸数 ハ九十七戸殆江戸時代 二等シキモ慶長慶安ノ 開拓當時ヨリ残存スル 家ハ二十戸ノ本家ト傍 系トノ 七十余軒ハ或 ハ断家シ或ハ離村シテ 無縁仏トナレリ今廣岡 ノ繁榮ヲ憶フ時コレ等 有縁無縁ノ開拓ニ當? シ諸仏ノ功績ヲ偲ヒ且 感謝報恩シ誠ヲ以テ其 靈ヲ慰メ永ク後世ニ伝 ヘムトスルモノ?
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一九六一年 撰文 樋田薫 杉村賢次刻<br/>
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廣岡區民協賛 大教總監 一心建之<br/>
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以下はこの現代語訳である。
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<div>'''大野廣岡開拓由来記'''</div>
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広岡には太古に天の神が生まれたと伝えられる池とそれを祀る血洗神社がある。従四位上阿気明神または神明神社ともいう。
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古くは大野村と称し大野八幡神社を氏神としていた。天文年間 {{note|(1532-1555年/戦国)}} に土岐右衛門守一族が流れ住んで右衛門平を開拓したという。しかし元亀2年
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{{note|(1571年/安土桃山)}} の大洪水と山崩れのため全村のほとんどが埋没し僅か13軒と一部耕地のみが残った。
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近世に入ると領主保護の元で再び開墾を行い大野新田と呼ぶようになる。慶長9年 {{note|(1604年/江戸初期)}} 岩村藩主松平和泉守家乗公の代に開拓を始め、慶安年間 {{note|(1648-1651年/江戸初期)}} には名主加平次を中心に諸国諸地から集まった人々によって着々と開拓が進み、戸口が増え小字も大野、右衛門平、大柳、広岡など新田部落を成すに至った。青野村の百姓、弥兵次が移り住んだのもこの頃である。
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斯くて丹羽氏純公の代である寛文3年から延宝6年までの16年間を新田を検見し年貢を納める。延宝7年 {{note|(1679年/江戸初期)}} の検地では新田村高158石となり家持ち百姓も39軒としている。庄屋は史郎兵衛であった。
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元禄16年 {{note|(1703年/江戸初期)}} 松平乗純公が岩村藩主となった時に大野村15軒と古田92石を飯沼村の枝郷、大野新田村56軒158石が広岡新田村と称して阿木村の枝郷となる。しかし両村ともに大野八幡神社を氏神とした。
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その後享保7年 {{note|(1722年/江戸中期)}} の検地では家持ち百姓が6軒増え、これを寅新田ともいう。幕末には16軒となる。明治となると大野、広岡は再び合同して阿木村に編入され、その後中津川市と合併する。
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現在大野と広岡の戸数は97戸。江戸時代とほとんど等しいが慶長慶安の開拓当時から残っている家は20戸の本家と傍系である。70軒余りが断家あるいは離村して無縁仏となっている。今広岡の繁栄を思う時、これら有縁無縁の開拓に当?した諸仏の功績を偲び、かつ感謝報恩し誠をもってその霊を慰め永く後世に伝えむとするものである。
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== 躍進之碑 ==
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[[File:新杜躍進之碑01.jpg|thumb|120x120px|躍進之碑]]
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<strong>躍進之碑</strong><map title="" lon="137.487875" lat="35.404778"/>は新杜に建てられている石碑。「國道改良 農免道 圃場整備 躍進之碑 岐阜県知事 上松陽助」と刻まれている。農免道整備や大野の構造改善というと {{年号|1974}} 頃だろうか。
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== 寺子屋師匠之碑 ==
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<strong>寺子屋師匠之碑</strong><map title="寺子屋師匠之碑" lon="137.487875" lat="35.404778"/>は新杜に建てられている石碑。広岡分校が建てられたのは {{年号|1881}} だが、学制が敷かれた後に建てられた学校も寺子屋と呼ばれたのだろうか。
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平成に入ってから建てられた比較的新しい石碑である。
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File:新杜寺子屋師匠之碑01.jpg|09/02/21 文化の先導 寺子屋師匠之碑 市右ヱ門翁 悉十翁 金右ヱ門翁 曹屋和尚 金婚式記念一心建之。
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File:新杜寺子屋師匠之碑02.jpg|09/02/21 篤志寄附 一万円 鷹見紀義 〃 鷹見典一 〃 今井久一郎 地所 前田七郎 施工 佐々木工ム店。
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== 参照 ==
 
== 参照 ==
* [[二分団]]
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* [[広岡八幡神社]]
* [[広岡鼓笛隊]]
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* [[広岡公民館]]
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* [[開拓者慰霊碑]]
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* [[躍進之碑]]
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* [[寺子屋師匠之碑]]
  
 
[[Category:二分団|しんもり]]
 
[[Category:二分団|しんもり]]
 
[[Category:地区|しんもり]]
 
[[Category:地区|しんもり]]

2009年6月5日 (金) 03:36時点における版

新杜

新杜(しんもり)広岡八幡神社を中心とした鎮守の森。広岡公民館と二分団の消防設備が併設されており、二分団の会合やイベントは大抵ここで行われる。

広岡新田が大野と別れてからもしばらくは大野八幡神社を氏神としていた。広岡八幡神社が勧請されたため、大野杜に対する新しい鎮守の森という意味で新杜と呼ばれるようになった。

参照

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