明知線

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明知線を走っていた C12 の何台かは現在でも以下の場所で保存されている。またこれら以外にも C12-42, C12-209 などが走っていた。
 
明知線を走っていた C12 の何台かは現在でも以下の場所で保存されている。またこれら以外にも C12-42, C12-209 などが走っていた。
  
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:明知線開業の頃に走っていた C12-6 が保存されている。{{年号|1933}} 汽車製造会社製造、{{年号|1973}} 4月廃車。
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== ディーゼル時代 ==
 
== ディーゼル時代 ==

2009年8月24日 (月) 04:25時点における版

国鉄明知線(こくてつあけちせん)はかつて中央本線の支線といて存在していた鉄道路線。国鉄民営化に伴い廃止され現在は第三セクターの明知鉄道として営業を行っている。

目次

SL時代

1933年 (昭和8年) 5月24日に国鉄 (鉄道省) 明知線大井駅(現恵那駅)-阿木駅間が開通。当初は大井から静岡県の掛川まで繋げる計画で始まったが、1934年 (昭和9年) 6月24日に明知駅が開業して以降はそれ以上の延伸は行われていない。いくつもの峠を越える山岳鉄道であった。

開業から 1973年 (昭和48年) まではC12蒸気機関車が走っていた。恵那駅に転車台がないため片道はバック運転であったが、中央線中津川駅からの明知線への乗り入れも行われていた。当初は貨客混合列車であったが、レールバス(初期のガソリン車)の導入により、貨客分離が行われ、貨物列車のみC12により運転されていた。しかし 1973年 (昭和48年) に本州中部で最後まで残っていた蒸気機関車は廃止された。

明知線を走っていた C12 の何台かは現在でも以下の場所で保存されている。またこれら以外にも C12-42, C12-209 などが走っていた。

恵那市中央図書館[MAP] (恵那市長島町)
1950-1972年 (昭和25年-昭和47年) に走っていた C12-74 が保存されている。1934年 (昭和9年) 三菱重工製造、1972年 (昭和47年) 廃車。
明智小学校[MAP] (恵那市明智町)
1969-1970年 (昭和44年9月26日-昭和45年4月20日) と 1973年 (昭和48年3月23日-同年11月30日) に走っていた C12-244 が保存されている。1940年 (昭和15年) 7月30日 日立製作所製造、1973年 (昭和48年) 11月30日廃車。
小樽市総合博物館[MAP] (北海道小樽市)
明知線開業の頃に走っていた C12-6 が保存されている。1933年 (昭和8年) 汽車製造会社製造、1973年 (昭和48年) 4月廃車。
JR 茅野駅東口[MAP] (長野県茅野市)
1972-1973年 (昭和47-48年) に走っていた C12-67 が保存されている。1933年 (昭和8年) 日立製作所製造、1973年 (昭和48年) 廃車。
安城市総合運動公園[MAP] (愛知県安城市)
1972-1973年 (昭和47年3月11日-昭和48年10月6日) に走っていた C12-69 が保存されている。1934年 (昭和9年) 日本車輌株式会社製造、1974年 (昭和49年) 3月廃車。
西尾公園[MAP] (愛知県西尾市)
1972-1973年 (昭和47年3月11日-昭和48年11月3日) に走っていた C12-230 が保存されている。明知線から木曽福島区に移動され本州最後の C12 となった。1939年 (昭和14年) 9月14日 日本車輌株式会社製造、1974年 (昭和49年) 6月4日廃車。

ディーゼル時代

国鉄時代には最終的に、勾配区間用に開発されたディーゼル車両のキハ52が導入された。1日1往復、中津川駅まで乗り入れる便があり、中津川機関区において点検整備されていた。中津川行きの列車には、キハ40が増結され3両編成であった。また 1981年 (昭和56年) まではDD16牽引による貨物車両も運行されていたが、荷扱いの減少に伴い廃止された。通常2両編成でトイレもあったが、エアコンは付いておらず夏場には窓を全開にしていた。

単線の明知線は阿木-恵那間、阿木-岩村間が閉塞区間となっており、阿木駅ですれ違い (タブレットの交換) を行っていた。現在でも上り線ホームの遺構にはタブレットキャッチャーが残っている。タブレット交換とポイント操作のために駅員が常駐していたが旅客扱いはなく、切符は車内の車掌から買っていた。ただし、七日市などの大量に乗客がある場合に臨時に切符の販売を行っていた。

恵那方面へは線路を渡って反対側のホームから乗車した。春には上りホームの後ろに植えられた桜が咲き乱れていた。冬にはストーブが出されていた。

1981年 (昭和56年9月18日)、赤字路線だった明知線は特定地方交通線に指定され廃止が決定する。しかし通勤・通学の大事な足として利用されていたため恵南地方では反対運動が起きた。同時に市営化、民営化、また鉄道を廃止して路線バス化なども検討された。結局、受け入れを名乗り出る鉄道会社はおらず、現在の鉄道設備を引き継いで第三セクター化して明知鉄道株式会社を設立する事が決定した。これによって反対運動はひとまず収まった。

明知鉄道開業の前には沿線の小学校で新車両のデザイン公募などが行われた。阿木小学校でも阿木駅で写生大会が行われた。また転換の一ヶ月ほど前からアケチ1型の研修を兼ねた試運転が行われ、阿木駅でも新車両と旧車両のすれ違いを見ることができた。

なお、明知線時代に活躍していたキハ 52 のうち 120, 121, 122, 123, 137 の 5 車両が新潟運輸区で現役運行中である。明知線を走っていた頃とは塗装が変わっているが、羽越本線の一部 (新潟)、米坂線 (米沢)、磐越西線 (会津若松) などで見ることができる。また 136 は九州(肥薩線)で運用されていたが 1990 年代に廃車、124 は福井方面で運用後 2003 年に廃車となっている。

関連項目

外部リンク

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
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