明知鉄道

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* [http://www.aketetsu.co.jp/ Akechi Railway Co.ltd - 明知鉄道株式会社]
 
* [http://www.aketetsu.co.jp/ Akechi Railway Co.ltd - 明知鉄道株式会社]
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* [http://homepage1.nifty.com/loco/c12/mem/akechi/index.htm 明知線のC12]
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* [http://www.k4.dion.ne.jp/~roehre25/eisen/eisen-16.html 鉄道原風景 - 明知線]
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* [http://flattwindolphin.blog.so-net.ne.jp/2008-05-18-1 ローカル線 国鉄/私鉄]
  
 
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2009年6月9日 (火) 13:02時点における版

明知鉄道(あけちてつどう)は恵那駅-明智駅を結ぶ第三セクターの鉄道。1933年 (昭和8年) の開業から 1985年 (昭和60年) までは国鉄明知線という中央本線の枝線であった。現在阿木周辺には阿木駅飯沼駅が営業している。

目次

SL時代

1933年 (昭和8年) 5月24日に鉄道省 (国鉄) 明知線大井駅(現恵那駅)-阿木駅間が開通。当初は大井から静岡県の掛川まで繋げる計画で始まったが、1934年 (昭和9年) 6月24日に明知駅が開業して以降はそれ以上の延伸は行われていない。いくつもの峠を越える山岳鉄道である。

開業から 1973年 (昭和48年) まではC12蒸気機関車が走っていた。恵那駅に転車台がないため片道はバック運転であったが、中央線中津川駅からの明知線への乗り入れも行われていた。しかし 1973年 (昭和48年) に中央西線全線が電化されたことによって蒸気機関車が廃止され、明知線も順次ディーゼル車両に入れ替えられて行くことになった。

明知線を走っていた C12 の何台かは現在でも以下の場所で保存されている。またこれら以外にも C12-42, C12-209 などが走っていた。

小樽市総合博物館[MAP] (北海道小樽市)
明知線開業の頃に走っていた C12-6 が保存されている。1933年 (昭和8年) 汽車製造会社製造、1973年 (昭和48年) 4月廃車。
JR 茅野駅東口[MAP] (長野県茅野市)
1972-1973年 (昭和47-48年) に走っていた C12-67 が保存されている。1933年 (昭和8年) 日立製作所製造、1973年 (昭和48年) 廃車。
安城市総合運動公園[MAP] (愛知県安城市)
1972-1973年 (昭和47年3月11日-昭和48年10月6日) に走っていた C12-69 が保存されている。1934年 (昭和9年) 日本車輌株式会社製造、1974年 (昭和49年) 3月廃車。
ふるさとふれあい広場[MAP] (恵那市長島町)
1950-1972年 (昭和25年-昭和47年) に走っていた C12-74 が保存されている。1934年 (昭和9年) 三菱重工製造、1972年 (昭和47年) 廃車。
西尾公園[MAP] (愛知県西尾市)
1972-1973年 (昭和47年3月11日-昭和48年11月3日) に走っていた C12-230 が保存されている。明知線から木曽福島区に移動され本州最後の C12 となった。1939年 (昭和14年) 9月14日 日本車輌株式会社製造、1974年 (昭和49年) 6月4日廃車。
明智小学校[MAP] (恵那市明智町)
1969-1970年 (昭和44年9月26日-昭和45年4月20日) と 1973年 (昭和48年3月23日-同年11月30日) に走っていた C12-244 が保存されている。1940年 (昭和15年) 7月30日 日立製作所製造、1973年 (昭和48年) 11月30日廃車。

ディーゼル時代

1973年 (昭和48年) の中央西線の電化に伴い明知線もディーゼル車両のキハ52を導入。ただし運行は SL 時代と変わらず中津川駅まで乗り入れる便もあった。また 1981年 (昭和56年) までは貨物車両も牽引していた。車両は 1〜2 両編成でトイレもあったが、エアコンは付いておらず夏場には窓を全開にしていた。

単線の明知線は阿木-恵那間、阿木-岩村間が閉塞区間となっており、阿木駅ですれ違い (タブレットの交換) を行っていた。現在でも上り線ホームの遺構にはタブレットキャッチャーが残っている。駅員は 1 人居たが常駐しているわけではなく、晩年にはしばしば居ないこともあった。窓口で切符を買えなかった場合は車内の車掌から買うことになる。

恵那方面へは線路を渡って反対側のホームから乗車した。春には上りホームの後ろに植えられた桜が咲き乱れていた。冬にはストーブが出されていた。

1981年 (昭和56年9月18日)、国鉄民営化計画で赤字路線だった明知線の廃止が決定する。しかし通勤・通学の大事な足として利用されていたため恵南地方では反対運動が起きた。同時に市営化、民営化、また鉄道を廃止して路線バス化なども検討された。結局、受け入れを名乗り出る鉄道会社はおらず、現在の鉄道設備を引き継いで第三セクター化して明知鉄道株式会社を設立する事が決定した。これによって反対運動はひとまず収まった。

明知鉄道開業の前には沿線の小学校で新車両のデザイン公募などが行われた。阿木小学校でも阿木駅で写生大会が行われた。また転換の一ヶ月ほど前からアケチ1型の研修を兼ねた試運転が行われ、阿木駅でも新車両と旧車両のすれ違いを見ることができた。

なお、明知線時代に活躍していたキハ 52 のうち 120, 121, 122, 123, 137 の 5 車両が新潟運輸区で現役運行中である。明知線を走っていた頃とは塗装が変わっているが、羽越本線の一部 (新潟)、米坂線 (米沢)、磐越西線 (会津若松) などで見ることができる。また 136 は九州(肥薩線)で運用されていたが 1990 年代に廃車、124 は福井方面で運用後 2003 年に廃車となっている。

明知鉄道時代

1985年 (昭和60年11月16日)、国鉄明知線廃止に伴い明知鉄道株式会社が営業を開始。国鉄民営化で全国の枝線が第三セクター化した時期という事もあり、明知鉄道を含めそれらの多くがレールバスという位置づけでコスト削減を目標としていた。国鉄時代と大きく異なったのは以下の点。

  • 中央線乗り入れ廃止 ─ 国鉄時代は便を選べば中津川駅まで乗り換えなしで行けたが、すべてが恵那駅折り返しとなった。また中央線との接続軌道も撤去された。
  • ワンマン運転 ─ 運転士が料金徴収も兼務することで車掌が廃止された。新車両では乗降車口に整理券発行機と料金箱が設置された。
  • 阿木駅の無人化 ─ ダイヤ調整によって阿木駅での閉塞 (すれ違い) を廃止し無人駅となった。同時に阿木駅上り側ホームと軌道、ポイント切り替え機、腕木式信号機などが廃止された。

本数も減って若干不便にはなったが、当時は路線廃止よりは良いだろうという雰囲気であった。ワンマン化も晩年の国鉄バスが既にその方式であったため特に混乱はなかった。国鉄時代の厚紙切符と違って、薄い番号が印字された味気ない整理券が悲しかった事を覚えている。

1991年 (平成3年10月28日)飯沼の市ノ坪に日本一の急勾配となる飯沼駅が開業する。

風景

鉄道施設

参照

外部リンク

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