阿木公会堂

提供:安岐郷誌
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阿木公会堂 (昭和初期)

阿木公会堂(あぎこうかいどう)または阿木座は江戸時代後期から昭和前半にかけて現在の阿木保育園の場所[MAP]にあった施設。花道や、当時は珍しい回り舞台もありかなり立派な舞台だったと言われている。

目次

沿革

恵那地方の中でも阿木は特に地歌舞伎や狂言が盛んであった。阿木公会堂の前身は江戸時代後期に現在の CHAO 近く[MAP]に建てられた見沢・宮田組の舞台である。この頃は広岡や飯沼などの組や枝村で舞台を造っていたが、見沢の舞台の立て替えを機に阿木で舞台をつくろまいという事になり、1860年 (万延元年/江戸後期) に現在の保育園の場所に阿木座が建てられた。なお阿木座の前には蚕を飼うところと集会所のようなところがあったという。

太平洋戦争時には軍需工場として使用された事があった。回り舞台を取っ払って平らにし作業場所を作ったが、操業を始めて程なく終戦を迎えた。何を作っていたかは不明だが[要調査]、表には旋盤で削ったカスが置いてあり陸軍らしき服装の人が居たと聞く。遠くから徴用された工員は橋場や藤上などの民家で泊まっていた。

終戦を迎え村民が復員すると公会堂も修復された。二代目中村鴈治郎が来た際には、山の中のどこへ連れて行かれるかと思ったが、これほどすばらしい舞台は見たことがないと言ったという。

阿木公会堂は 1982年 (昭和57年) に取り壊され、現在この跡地は阿木保育園となっている。「公会堂」の大看板は阿木コミュニティセンターに置かれているがあまりに大きいため良い管理が行われていない。

  • 1818年 (文政元年/江戸後期) 広岡・大野が共同で舞台の建築を始める。
  • 1819年 (文政2年/江戸後期) 飯沼神明森の舞台が完成する。
  • 1820年 (文政3年/江戸後期) 見沢八幡神社境内の外れの持林を一両三分二朱で買い、上田の林右衛門、見沢の助十郎、宮田の平右衛門、野田の伊兵衛、藤上の甚七郎などが発起人で舞台の建設を始める。
  • 1822年 (文政5年/江戸後期) 見沢の舞台棟上げ。六十六両二分二朱、人足四千余) 間口九軒半。
  • 1859年 (安政6年/江戸後期) 見沢の舞台を取り壊し、安岐座の建設が始まる。
  • 1860年 (万延元年/江戸後期) 安岐座完成。
  • 1914年 (大正3年) 阿木座を改修。板葺きを瓦葺きに替え阿木公会堂と改称する。
  • 1946年 (昭和21年) 阿木公会堂復興完成する (市川八百蔵一座歌舞伎二日間)
  • 1950年 (昭和25年) 劇場化。映画上映も行われる。中村鴈治郎一座上演で大道具、小道具を新調する。
  • 1957年 (昭和32年) 合併祝賀会で映画会を行い沢村茂美一座公演
  • 1982年 (昭和57年) 取り壊されて阿木保育園が建つ。

新聞切り抜き

また一つ消える 東濃路の灯 中津川市の村芝居小屋「安岐座」
120年の歴史 数多くの思い出残し "名優"古老も「子供らに残したかった」

百二十年にわたって数々の思い出を残し、人々の心をとらえた中津川市阿木寺領の農林舞台「安岐 (あぎ) 座」の取り壊しが、老朽化などを理由に今月初めから始まった。かつて"名優"として舞台を踏んだ古老たちの感慨は深く、東濃地方の芝居小屋がまた一つ、その長い歴史を閉じる。

跡地は保育園用地に

安岐座は、木造平屋建て七四七平方㍍。安政七年 (一八六〇) 素人歌舞伎や狂言、寄席の舞台として、村民たちによって建てられた。当時は家の造り方一つにしても岩村藩の制限を受け、安岐座建設の許可は村人にとって大きな喜びだった。小屋にふさわしい立派な木を見ると、所有者に寄付話を持ち込み、話がまとまらないうちに伐採してしまった、ほどだという。

しかしこの芝居小屋も明治時代に入って、さびれだした。無用の長物として、小学校に改修する計画も口にされたが、村の公会堂として大正三年大改造を行い、大きく生まれ変わる。改造費は、当時の金額で約二千円。村民各戸の寄付と、村財産の処分などでまかなった。板ぶきだった屋根をカワラにかえ、回り舞台や楽屋の増築などで面目を一新、カワラは一枚々々をたんねんにたたいて調べ、焼きの悪いものは取りかえた。淺敷もマス席に仕切り、七百人を収容した。芝居や催し物などが盛んに行われ、昭和八年には、国鉄明知線の開通を祝って一週間ぶっ通しで村芝居二十幕が上演された。

太平洋戦争中は兵器の組み立て工場として軍に接収されたが、戦後、再び見直され、二十五年には歌舞伎の中村雁治郎を招いた。これは、今でも地元民自慢の一つになっている。

やがて、テレビの時代到来。区民公民館の開設でついに安岐座の必要性は消えた。四十七年、娯楽の殿堂としての歴史を閉じ、貸倉庫になっていた。

取り壊し作業は今月下旬まで続くが、作業現場には名残を惜しむお年寄りの姿が絶えない。跡地は保育園の建設用地に、ひと抱えもあるヒノキやケヤキの立派な木材は柱などに再利用されるとか。地元に住む西尾賢太郎さん(五二)は、昔を思い起こしながら「公園の日には、必ず雨が降った。"公会堂" と彫られた額にあるカエルの "賛" (マーク) が雨を呼ぶと評判になり、削り取った思い出とか、舞台の様子、成人式の一コマ一コマが目に浮かびます。なんとか、子供たちに郷土の歴史として残しておきたかった」と、残念そう。

村の芝居小屋は、大正から昭和初期にかけて全盛をきわめた。その当時、いまの中津川市を含む恵那郡二十二町村では、約三十の小屋がかけられたというが、今年二月末には同郡坂下町の「新盛座」が不審火で全焼、いまでは加子母村の「明治座」福岡町の「常磐座」を残すのみとなった。

公会堂取り壊しの切り抜き01.jpg
資料撮影 1982/5/20 [1]

四方山話

  • 阿木座を建築するさいには、村内の銘木が使われた。銘木を集める際には、寄付するよう要請されそれを渋る持ち主に、使いの者が「いや、○○ともあろう方が断るとは思わなんだ。もう、承諾を得られる物と思い、若い者を切りにやらせてしまった」と言い放ち、無理矢理寄付させたなどの逸話も残る。
  • あまりに立派な柱であったため、東京から来た役者が「これは、はりぼてだろう?」と叩いて確かめたという。
  • 柱が立派すぎて邪魔と、細い鉄骨に置き換えられていたから、最初に銘木を寄付させられた者はたまらない。
  • 公会堂の看板には、蛙の絵がついていて、何かと公会堂での行事のときに雨が降ったため、「看板の蛙が雨を呼んでいる」といわれた。
  • 現在野内に祀られている秋葉様は公会堂の守護のために勧請されたものである (秋葉大権現は防火の神)。元々は公会堂と一緒に祀られていたが取り壊しにより現在の場所に移ったという。

参照

参考文献

  • 阿木写真集, 阿木歴史教室, 阿木写真集編集委員, 阿木公民館, 平成5年
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