阿木公会堂
目次 |
沿革
阿木公会堂の前身は現在の見沢阿弥陀堂の上[1]に建てられていた見沢・宮田組の舞台である。この舞台の立て替えを機に阿木で舞台をつくろまいという事になり、1860年 (万延元年/江戸後期)、村内 14 組[2]の連名で現在の保育園の場所に阿木座が建てられた。
この時代は家を建てるのにも岩村藩の許可が必要だったし、また慢性化した財政難や江戸末期の度重なる飢饉のために領民の娯楽は厳しく制限されていた。そういった時代背景の中で大きな阿木座が建てられたのは領民の強い要望があったためである。
しかし阿木座も常に盛況だったわけではなかった。明治に入り阿木尋常小学校を建てる事になったが財源不足のため中々進まなかった。このまま新しく建てるのか、それともあまり使われていない阿木座を改修して小学校にするかという事で大揉めに揉めた。結局小学校の完成は着工から二年ほどかかった。
阿木座が復興するのは大正に入ってからである。1914年 (大正3年) に板葺きだった屋根を瓦葺きに替え、楽屋の増設、天井の張替えなどの大改修を行った。また舞台とすると劇場税がかかるため村民の集会などにも使える公会堂と名を改めた。
太平洋戦争の終わり近くになると名古屋陸軍造兵廠千種製造所が疎開して来て軍需工場として使用された。廻り舞台を取っ払って平らにし作業場所を作った。軍事機密もあり何を作っていたかは村民にも明かされなかったが、表には旋盤で削ったカスが置いてあり陸軍軍人らしき服装の人が居たという。遠くから徴用された工員は橋場や藤上などの民家で泊まっていた。しかし操業を始めて一年程で終戦を迎え、この行員もやけくそになって一緒に盆踊りを踊った。
村民が復員すると公会堂も修復された。二代目中村鴈治郎が来た際には、山の中のどこへ連れて行かれるかと思ったが、これほどすばらしい舞台は見たことがないと言ったという。
阿木公会堂は 1982年 (昭和57年) に取り壊され、現在この跡地は阿木保育園となっている。「公会堂」の大看板は阿木コミュニティセンターに置かれているがあまりに大きいため良い管理が行われていない。
- ^ 阿木城縄張図に舞台跡とある場所がそれである。
- ^ 寺領・藤上・野内・見沢・宮田・野田・青野・八屋砥・久須田・黒田・田中・山野田・真原・大根木の 14 組。大野・広岡新田村と飯沼村は別に舞台を持っていた。
- 1818年 (文政元年/江戸後期) 広岡新田・大野が共同で舞台の建築を始める。
- 1819年 (文政2年/江戸後期) 飯沼村神明森の舞台「飯妻座」が完成する。
- 1820年 (文政3年/江戸後期) 見沢八幡神社境内の外れの持林を一両三分二朱で買い、上田の林右衛門、見沢の助十郎、宮田の平右衛門、野田の伊兵衛、藤上の甚七郎などが発起人で舞台の建設を始める。
- 1822年 (文政5年/江戸後期) 見沢の舞台棟上げ。六十六両二分二朱、人足四千余) 間口九軒半。
- 1859年 (安政6年/江戸後期) 見沢の舞台を取り壊し、安岐座の建設が始まる。
- 1860年 (万延元年/江戸後期) 3月27日棟上。安岐座完成。
- 1874年 (明治7年) 大野の舞台を広岡に移設。
- 1877年 (明治10年) 阿木座の屋根の修繕。
- 1914年 (大正3年) 阿木座を大改修。板葺きだった屋根を瓦葺きに替え、楽屋の増設、天井の張替えなどを行い阿木公会堂と改称する。
- 1918年 (大正7年) 阿木電気株式会社から電気供給を受け電燈が灯る。
- 大正年間に広岡舞台が売り払われる。
- 1935年 (昭和10年) 明知線開通祝賀歌舞伎が一週間を通して行われる。
- 1945年 (昭和20年) 軍需工場となる。
- 1946年 (昭和21年) 阿木公会堂復興完成する (市川八百蔵一座歌舞伎二日間)
- 1950年 (昭和25年) 劇場化。映画上映も行われる。中村鴈治郎一座上演で大道具、小道具を新調する。
- 1957年 (昭和32年) 合併祝賀会で映画会を行い沢村茂美一座公演。
- 1972年 (昭和47年) 貸倉庫となる。
- 1982年 (昭和57年) 取り壊されて阿木保育園が建つ。
新聞切り抜き
四方山話
- 阿木座を建築するさいには、村内の銘木が使われた。銘木を集める際には、寄付するよう要請されそれを渋る持ち主に、使いの者が「いや、○○ともあろう方が断るとは思わなんだ。もう、承諾を得られる物と思い、若い者を切りにやらせてしまった」と言い放ち、無理矢理寄付させたなどの逸話も残る。
- あまりに立派な柱であったため、東京から来た役者が「これは、はりぼてだろう?」と叩いて確かめたという。
- 柱が立派すぎて邪魔と、細い鉄骨に置き換えられていたから、最初に銘木を寄付させられた者はたまらない。
- 公会堂の看板には、蛙の絵がついていて、何かと公会堂での行事のときに雨が降ったため、「看板の蛙が雨を呼んでいる」といわれた。
- 現在野内に祀られている秋葉様は公会堂の守護のために勧請されたものである (秋葉大権現は防火の神)。元々は公会堂と一緒に祀られていたが取り壊しにより現在の場所に移ったという。
参照
参考文献
- 阿木写真集, 阿木歴史教室, 阿木写真集編集委員, 阿木公民館, 平成5年