飯沼
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2009年6月3日 (水) 20:23時点における版
目次 |
沿革
岩村城遠山氏の代々夫人に与えられた供米の取れる地であったため飯妻と呼ばれるようになったと云われている。巖邑府誌によればそれ以前は大野村と呼ばれていたのではないかと推測しているが確かではない。
新杜の開拓由来記によれば 1703年 (元禄16年/江戸初期) に大野村と広岡新田を分離し、大野村を飯沼村の枝村と定めている。現在の大野が飯沼の飛び地となっているのはこのためであろう。
巖邑府誌によれば遠山夫人がこの飯妻村で安産の祈祷し、村はその供物などを納めていたために村人は難産しなくなったと云われている。この風習は岩村から遠山氏が居なくなった後も継がれ現在でも子安講として続いている。
角川地名辞典によれば 1699年 (元禄12年/江戸初期) 頃からは沼地が多かったため飯沼村と呼ぶようになったという。戦国期に遠山氏が滅亡し湯沐邑でなくなって妻の意味が薄れたものと思われる。
飯沼村は明治の大合併 (1897年/明治30年) で阿木村と合併してその名は字として残る事となった。現在飯沼の名前は中津川市の大字。
飯沼の小字
新田
飯沼川が山から出る付近。
中尾
飯沼の東北。血洗池やゴルフ場に出る山道がある。
上樋角
下樋角
山ノ田
後田川の山際付近。
矢筈
梨坪
禅林寺から飯沼川に降りた付近。
鞍坪
梨坪から飯沼川を下った付近。
大日向
大野農免道で大野側から見て辻の手前の北側。その名が示す通り日当たりが良く広く田畑が開けている。大日向遺跡がある。また小高い丘の上に新田の祠が祀られている。
小日向
飯沼川の南、飯野のため池の下付近が小日向と呼ばれているという。
千羽鳥屋
字千羽鳥屋 1511-1 にフォーティーンヒルズカントリークラブあり。
脇田
大野農免道から方外戸の倶楽部への道が分かれる付近。字脇田 366-1 に藤工あり。
宮ノ根
宮ノ根参照。
五反田
宮ノ根から野内方面へ登る周辺。
山之神
市之坪
飯沼駅付近。
木ノ下
木ノ下古墳あり。
飯野
飯野遺跡あり。
藪下
鞍坪に向かう三叉路がある。福祉巡回バスの停留所あり。
ランドマーク
大日向遺跡
縄文時代の遺物包含地。辻の東で農免道路の北側の平らで日当たりの良い畑や水田地帯である。縄文時代早期から中期にかけての矢尻や土器の破片、住居跡などが発掘されている。1967年 (昭和42年) に大型の瓶棺が見つかり、名古屋大学で発掘調査が行われた。この瓶棺は禅林寺が保管している。
- 中津川デジタルアーカイブ 大日向遺跡出土縄文土器
宮ノ根遺跡
縄文時代の遺跡。遺物包含地。現在山林。
宮ノ根古墳
5世紀末から6世紀前半と推定される棺や石室を持たない直葬式の円墳。大野農免道沿いのゲートボール場を造成するために遺跡を削ったところ刀が出土したという。
飯野遺跡
縄文時代の遺跡。遺物包含地。現在畑地。
木ノ下古墳
古墳時代の円墳。現在山林。
西山遺跡
縄文時代の遺跡。遺物包含地。現在宅地。
狐塚1号古墳
古墳時代の円墳。昭和42年発掘調査。現在山林。
猿小塚古墳
古墳時代の円墳。現在山林。
木ノ下遺跡
縄文時代の遺物包含地。現在畑/山林。
新田の祠
農免道沿い大日向付近の丘に鳥居と祠、石碑が建てられている。ここは新田の持ち宮で山の神が祀られているという。
石碑の一つにたくさんの
五輪堂
辻の西で禅林寺の北側に
辻
農免道から禅林寺に入る十字路は辻と呼ばれている。福祉巡回バスの停留所あり。
神明橋
神明神社の正面で旧県道407号が飯沼川と交差する場所の橋。この道は旧岩村街道である。巖邑府誌で乱橋と記されているのはこの神明橋だろうか。
下沢橋
県道407号が後田川を越える橋。
境橋
県道407号が中尾川を越える橋。飯沼と東野の境にあるため境橋という名であろう。
NPO法人ほたるの里
県道407号沿い、アサノ生コン跡地に作られてた不登校児童の民間施設。ここから阿木小学校へ多くの児童が通っている。
地元住民のコンセンサスがほとんど取れていない状態で設置され、折しも地方での活動拠点を増やしているカルト教団が全国的に問題となっていた頃でもあったため、オウムかどこかが隠れ蓑に作った児童収容施設ではないかなどと言う噂が先行して広まってしまった。宗教絡みの噂は聞かなくなったが、里人に植え付けた警戒心は未だに晴れていない様である。