長楽寺
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− | '''大通山'''{{ruby|'''長楽寺'''|ちょうらくじ}} | + | '''大通山'''{{ruby|'''長楽寺'''|ちょうらくじ}}は[[大根木]]にある[[w:天台宗|天台宗]]の寺。特定の檀家を持たない祈祷寺で現在は住職も居らず大根木集落の人たちによって維持されている。恵南新四国八十八ヶ所の二十八番札所である。 |
− | + | [[長楽寺の大銀杏|大銀杏]]は岐阜県の天然記念物、また本尊の木造十一面観音立像は中津川市の有形文化財である。 | |
+ | == 歴史 == | ||
+ | [[File:風神神社 風穴祭之圖.png|thumb|風穴祭之圖(江戸後期)]] | ||
+ | 長楽寺の開基は弘仁年間 {{note|(810-824年/平安)}} に三諦によると伝えられており阿木で現存する寺院の中ではもっとも古い寺である。鎌倉から戦国時代にかけての天台宗勢力の拡大に伴い長楽寺も発展を遂げ、最盛期には堂閣や楼門、属坊十二坊 {{note|(梅本坊、中野坊、一輪坊、大威坊、東古坊、左大坊、観右坊、尊下坊、法学坊、等学坊、立徳坊)}} があったと伝えられる。 | ||
− | + | しかし戦国時代に入ると[[岩村城の戦い]]に巻き込まれ、[[岩村城]]に向かう武田勝頼の軍勢によって属坊全てが焼き討ちにあった。 | |
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○'''大通山長楽寺'''は天嶺際 {{note|(現在の大根木)}} にある (この地は高嶺の下に接することから天嶺は高嶺の名による)。俗に行事岳と呼ばれるのはこの高嶺である。天台僧の三蹄が開山し、古くは堂閣、楼門、十二属坊があったが兵火で焼け落ちたと言い伝えられる。現在地名に某坊とあるのは属坊の跡である。 | ○'''大通山長楽寺'''は天嶺際 {{note|(現在の大根木)}} にある (この地は高嶺の下に接することから天嶺は高嶺の名による)。俗に行事岳と呼ばれるのはこの高嶺である。天台僧の三蹄が開山し、古くは堂閣、楼門、十二属坊があったが兵火で焼け落ちたと言い伝えられる。現在地名に某坊とあるのは属坊の跡である。 | ||
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地理をよく見ると土地が狭くて多くの堂閣は建てられないだろう。この場所に古くからあった属坊が廃れたあとに長楽寺をここに移したのだろうか。長楽寺の以前の位置が何処だったのかは分からない。現在の寺には観音像が安置されている。これは古寺の遺物であろう。また寺に各務氏附田の札があり村の中には寺領という地名がある。 | 地理をよく見ると土地が狭くて多くの堂閣は建てられないだろう。この場所に古くからあった属坊が廃れたあとに長楽寺をここに移したのだろうか。長楽寺の以前の位置が何処だったのかは分からない。現在の寺には観音像が安置されている。これは古寺の遺物であろう。また寺に各務氏附田の札があり村の中には寺領という地名がある。 | ||
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+ | 僧史を調べると[[w:天台密教|天台密教]]に通じた釈円房栄朝上人という者が上毛野の | ||
+ | [[w:長楽寺|長楽寺]] {{note|(現在の群馬県太田市世良田町)}} にいる。盛揚真化、宝治元年 {{note|(1247年/鎌倉)}} 没した。鎌倉幕府の全盛期である。これはつまり長楽寺は元々は上毛野にあって、幸神と同じ者がここに移したという事だろうか。 | ||
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− | + | 現在の長楽寺がある場所は左大坊という[[小字 (阿木)|小字]]である。 | |
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− | + | 各務氏とは岩村城の戦いの後に[[森忠政]]の代理で岩村城を守っていた[[各務元正|各務兵庫助元正]]である。附田の札とは長楽寺の寺領を表す札の事である (当時の寺や神社は領主から与えられた土地 (寺領や神田) からの収入で維持されていた)。 | |
− | + | [[萬嶽寺]]の建立は慶安3年 {{note|(1650年/江戸初期)}} であるから、寛永11年とは飯沼[[禅林寺]]再建との混同であろう。 | |
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天台宗大通山{{ruby|長楽|ちょうらく}}寺は、寺蔵の歴代年数等書上帳控の文政十二年三月条によれば、開山を弘仁年間(八一〇−八二四)といい、一二坊を数えたと記録している。境内の樹齢八〇〇年余といわれる大イチョウは県指定の天然記念物。 | 天台宗大通山{{ruby|長楽|ちょうらく}}寺は、寺蔵の歴代年数等書上帳控の文政十二年三月条によれば、開山を弘仁年間(八一〇−八二四)といい、一二坊を数えたと記録している。境内の樹齢八〇〇年余といわれる大イチョウは県指定の天然記念物。 | ||
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阿木5865 寄木材 江戸時代 像高 100cm この像は、長楽寺の本能で、戦国争乱の時代、武田氏の軍勢がこの地を侵攻した時、川へ投げ捨てられたが、拾い上げられ十二坊のひとつ梅本坊に安置sれたといられている。 | 阿木5865 寄木材 江戸時代 像高 100cm この像は、長楽寺の本能で、戦国争乱の時代、武田氏の軍勢がこの地を侵攻した時、川へ投げ捨てられたが、拾い上げられ十二坊のひとつ梅本坊に安置sれたといられている。 | ||
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− | + | 武田軍の長楽寺焼き討ちに巻き込まれて川に打ち棄てられた事、それが拾われて再び安置された事などが書かれている。 | |
観音像の江戸時代という年代と、戦国の争乱に巻き込まれたという話は矛盾している。通常なら逸話の方に疑惑が向くところだが、見ての通り中津川市デジタルアーカイブは誤字脱字が多いため年代の書き間違いの可能性も否めない。 | 観音像の江戸時代という年代と、戦国の争乱に巻き込まれたという話は矛盾している。通常なら逸話の方に疑惑が向くところだが、見ての通り中津川市デジタルアーカイブは誤字脱字が多いため年代の書き間違いの可能性も否めない。 | ||
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+ | その夜は大雨が降っていた。中島利八郎は十一面観音を持ち出したが武田の若武者がこれを奪おうと大力の武士大川端兵衛と戦った。その時雑兵が来て十一面観音を大雨で増水している阿木川に投げ入れた。 | ||
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+ | 洪水であったが十一面観音は水を切って川上へさかのぼる。敵兵の多くがこの様子を見て驚き恐れて逃げ帰っていった。そして軍師にこの事を報告すると軍師も驚いて軍を引き上げた。それで利八郎は川上に行って十一面観音を拾い出してきた。 | ||
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+ | 坊は全て焼けたが梅本坊の焼け残りに法華堂に十一面観音を安置した。武田信玄はこの話を聞いて梅本棒の境内を除地として 15 歩 1 俵の知行を残しておいたと云う。 | ||
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+ | 武田信玄が没した後も武田勝頼がまた秋山晴近に命じて攻めさせ白昼に法華堂に火を点けて焼いた。僧の正栄は豪雨の中に飛び込んで十一面観音と慈恵大師の像を持ち出した。敵兵はすごい雷鳴と大雨に恐れて逃げた。尊像を護摩堂に祀り今日に至った。 | ||
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− | == | + | == 関連項目 == |
+ | * [[長楽寺の大銀杏]] | ||
* [[風神神社]] | * [[風神神社]] | ||
+ | * [[風穴祭之圖]] | ||
* [[経塚 (大根木)]] | * [[経塚 (大根木)]] | ||
+ | * [[根木屋橋]], [[大根木橋]], [[長楽寺橋]] | ||
== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
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[[Category:三分団|ちようらくし]] | [[Category:三分団|ちようらくし]] | ||
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2010年8月12日 (木) 11:01時点における最新版
神社仏閣 | |
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180px 大通山長楽寺 | |
住所 | 岐阜県中津川市阿木字左大坊5864-3 |
位置 | N35:23:31.14/E137:28:50.35 |
宗派 | 天台宗 |
交通 | 国道363号から真原農免道の先 |
大通山
大銀杏は岐阜県の天然記念物、また本尊の木造十一面観音立像は中津川市の有形文化財である。
目次 |
[編集] 歴史
長楽寺の開基は弘仁年間 (810-824年/平安) に三諦によると伝えられており阿木で現存する寺院の中ではもっとも古い寺である。鎌倉から戦国時代にかけての天台宗勢力の拡大に伴い長楽寺も発展を遂げ、最盛期には堂閣や楼門、属坊十二坊 (梅本坊、中野坊、一輪坊、大威坊、東古坊、左大坊、観右坊、尊下坊、法学坊、等学坊、立徳坊) があったと伝えられる。
しかし戦国時代に入ると岩村城の戦いに巻き込まれ、岩村城に向かう武田勝頼の軍勢によって属坊全てが焼き討ちにあった。
江戸時代の終わり頃には修験道の隆盛により修行や風神詣で再び賑わうこととなった。
[編集] 写真集
長楽寺/ギャラリー参照。
[編集] 文献
[編集] 巌邑府誌
江戸時代中期の巖邑府誌には以下の様に記されている。
○大通山長楽寺は天嶺際 (現在の大根木) にある (この地は高嶺の下に接することから天嶺は高嶺の名による)。俗に行事岳と呼ばれるのはこの高嶺である。天台僧の三蹄が開山し、古くは堂閣、楼門、十二属坊があったが兵火で焼け落ちたと言い伝えられる。現在地名に某坊とあるのは属坊の跡である。
地理をよく見ると土地が狭くて多くの堂閣は建てられないだろう。この場所に古くからあった属坊が廃れたあとに長楽寺をここに移したのだろうか。長楽寺の以前の位置が何処だったのかは分からない。現在の寺には観音像が安置されている。これは古寺の遺物であろう。また寺に各務氏附田の札があり村の中には寺領という地名がある。
寛永 11 年 (1634年/江戸初期) には寺領に賀雲山万岳寺が建った。代々曹洞宗の和尚を置き盛厳寺に属する。多分長楽寺の跡地を引き継いだのだろう。
現在の長楽寺がある場所は左大坊という小字である。
各務氏とは岩村城の戦いの後に森忠政の代理で岩村城を守っていた各務兵庫助元正である。附田の札とは長楽寺の寺領を表す札の事である (当時の寺や神社は領主から与えられた土地 (寺領や神田) からの収入で維持されていた)。
萬嶽寺の建立は慶安3年 (1650年/江戸初期) であるから、寛永11年とは飯沼禅林寺再建との混同であろう。
[編集] 日本歴史地名大系
日本歴史地名大系には以下の様に記されている。
天台宗大通山
長楽 寺は、寺蔵の歴代年数等書上帳控の文政十二年三月条によれば、開山を弘仁年間(八一〇−八二四)といい、一二坊を数えたと記録している。境内の樹齢八〇〇年余といわれる大イチョウは県指定の天然記念物。
[編集] 中津川市デジタルアーカイブ
中津川デジタルアーカイブより (原文のまま)。
阿木5865 寄木材 江戸時代 像高 100cm この像は、長楽寺の本能で、戦国争乱の時代、武田氏の軍勢がこの地を侵攻した時、川へ投げ捨てられたが、拾い上げられ十二坊のひとつ梅本坊に安置sれたといられている。
武田軍の長楽寺焼き討ちに巻き込まれて川に打ち棄てられた事、それが拾われて再び安置された事などが書かれている。
観音像の江戸時代という年代と、戦国の争乱に巻き込まれたという話は矛盾している。通常なら逸話の方に疑惑が向くところだが、見ての通り中津川市デジタルアーカイブは誤字脱字が多いため年代の書き間違いの可能性も否めない。
[編集] 伝承
大嶺際 (大根木) に
仏法僧 と啼く鳥がおり、三諦はこの鳥を尋ねて廻っていた。あるとき一人の老人にあって一晩話し明かした。夜中の 0 時に確かに仏・法・僧と啼く声を聞いた。長楽寺実記
天正2年 (1574年/安土桃山) 武田軍が阿木城を攻め落とし、そこに陣を設けて、長楽寺に使者を出して降服する様すすめた。学頭の代理者はそれはできないと伝えた。その夜、武田の軍勢は不意打ちで攻め寄せ火を点けて十二坊の全てを焼き払ってしまった。
その夜は大雨が降っていた。中島利八郎は十一面観音を持ち出したが武田の若武者がこれを奪おうと大力の武士大川端兵衛と戦った。その時雑兵が来て十一面観音を大雨で増水している阿木川に投げ入れた。
洪水であったが十一面観音は水を切って川上へさかのぼる。敵兵の多くがこの様子を見て驚き恐れて逃げ帰っていった。そして軍師にこの事を報告すると軍師も驚いて軍を引き上げた。それで利八郎は川上に行って十一面観音を拾い出してきた。
坊は全て焼けたが梅本坊の焼け残りに法華堂に十一面観音を安置した。武田信玄はこの話を聞いて梅本棒の境内を除地として 15 歩 1 俵の知行を残しておいたと云う。
武田信玄が没した後も武田勝頼がまた秋山晴近に命じて攻めさせ白昼に法華堂に火を点けて焼いた。僧の正栄は豪雨の中に飛び込んで十一面観音と慈恵大師の像を持ち出した。敵兵はすごい雷鳴と大雨に恐れて逃げた。尊像を護摩堂に祀り今日に至った。
梅本氏所蔵の巻物による