利用者:Torao/研究と調査/胞衣伝説と子安講
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血洗神社が飯沼にあった事と胞衣伝説とにどういうつながりが? という点だが、さらによく考えれば、飯沼にはその地名の元ともなった古くから続く出産に関する信仰が存在している。 | 血洗神社が飯沼にあった事と胞衣伝説とにどういうつながりが? という点だが、さらによく考えれば、飯沼にはその地名の元ともなった古くから続く出産に関する信仰が存在している。 | ||
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岩村遠山氏が城主として居たのは築城から武田による陥落までの鎌倉、室町、戦国の約450年である。そのうちの半分が湯沐邑だったと見ても200年以上。[[講]]や崇拝対象として地域に根付くには十分な時間であろう。 | 岩村遠山氏が城主として居たのは築城から武田による陥落までの鎌倉、室町、戦国の約450年である。そのうちの半分が湯沐邑だったと見ても200年以上。[[講]]や崇拝対象として地域に根付くには十分な時間であろう。 | ||
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また岩村遠山氏の滅亡で湯沐邑が忘れられ、名も飯沼に変わり、血洗社の胞衣伝説が現れるまでに約150年である。これもまた伝承が伝説と化すには十分な時間であろう。 | また岩村遠山氏の滅亡で湯沐邑が忘れられ、名も飯沼に変わり、血洗社の胞衣伝説が現れるまでに約150年である。これもまた伝承が伝説と化すには十分な時間であろう。 | ||
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この説が正しいかどうかは分からないが、言及の多さや話の生々しさからして、恵那山周辺の胞衣伝説は血洗池の伝承が発端ではないだろうか。なぜ類似した話が周辺地域に広まったかについても考える。 | この説が正しいかどうかは分からないが、言及の多さや話の生々しさからして、恵那山周辺の胞衣伝説は血洗池の伝承が発端ではないだろうか。なぜ類似した話が周辺地域に広まったかについても考える。 | ||
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このページでは天照大神の胞衣伝説について、周辺地域の歴史文化と照らし合わせた解釈を加え、読み物的な立場で記述している。先に天照大神の胞衣伝説について読んでおく必要がある。
目次 |
[編集] 血洗社と神明社の関係
周辺地域の史書を調べていて引っかかった2点。
最初はどちらの著者も伝聞による混乱だろうと読み飛ばしていたが、よく考えれば今の飯沼が飯妻村と呼ばれる以前は大野村であったとも聞いている。飯妻村と呼ばれるようになった後も大野村の名を残したまま飯妻村の枝村となったのが現在大野と呼ばれている地域である。ややこしい話だが、古文献では飯沼と大野が混同されていることも少なくないという事である。
もし美濃明細記、巖邑府誌の通りであれば、古く血洗神社は:
- 飯沼にあり湖畔に遷座させるに際して今の神明神社を勧請した。
- 神明神社が血洗社とも呼ばれていたのを何時の時代か正式に分祀した。
といったような事が考えられる (どちらも神明社を前宮、血洗社を奥宮とした)。神明神社も血洗神社も祭神は天照大神であるためその点の矛盾はないし、また飯沼 (中尾) から血洗神社に出る古い道も残っている。
血洗神社が飯沼にあった事と胞衣伝説とにどういうつながりが? という点だが、さらによく考えれば、飯沼にはその地名の元ともなった古くから続く出産に関する信仰が存在している。
[編集] 飯妻村の子安講
巖邑府誌の飯妻の項には以下のようにも書かれている。
遠山氏夫人の湯沐邑 であったためこの名が付いたと伝えられる。字は妻に与えた米の穫れる地という意味から当てている。土壌や貢賦はおおむね安岐と同程度である。
ここでいう湯沐邑とは遠山城主の奥方に与えられた領地という意味。貢賦が奥方の個人収入になったかは分からないが、奥方様が住まわれたり籠もられるような場所である。
一説によればその昔、遠山氏夫人が難産に苦しめられたが医祷によってつつがなく分娩を終えたという事があり、湯沐邑もその祭資を提供した御利益で今でも村人は難産に苦しめられないという。このお堂は昔は村の東にあったが後の人が今の場所に移すと云う。
当時の飯妻村の領民は奥方様の子宝成就や安産祈願の祭祀、それに出産の世話を行っていた事が窺える。お堂とは子安寺 (おこやっさん) の事だろう。実際に代々の遠山氏奥方がここで祈祷と出産を行ったと聞いているし、現在でも飯沼では毎年の子安講が続いている。
気になる「東」というキーワード。現在の神明神社・子安寺 (宮ノ根) から東というと、血洗池なのか、現大野なのか、はたまた別の場所なのか分からない。
とにかく、ここまでタネを明かせばもう何が言いたいかは明白だろう。
血洗池で胞衣を清めたのは
岩村遠山氏の代々奥方様では!?
岩村城を築いた遠山 (加藤) 氏の祖も武並神社に祀られているし、山里の村人にしてみれば領主奥方様も神に等しい存在だったのだろう。言い伝えの課程で奥方様が神格化され、さらに江戸時代中期の国学の流行によって伊邪那美命、胞衣伝説へと発展したと考えられる。
岩村遠山氏が城主として居たのは築城から武田による陥落までの鎌倉、室町、戦国の約450年である。そのうちの半分が湯沐邑だったと見ても200年以上。講や崇拝対象として地域に根付くには十分な時間であろう。
また岩村遠山氏の滅亡で湯沐邑が忘れられ、名も飯沼に変わり、血洗社の胞衣伝説が現れるまでに約150年である。これもまた伝承が伝説と化すには十分な時間であろう。
ちなみに遠山氏夫人以外でも、吾妻鏡 1185年 (文治元年) 5月1日条において木曾義仲 (源義仲) の妹で北条政子の養女となっていた宮菊が源頼朝から美濃国遠山荘の一村を与えられそこに移り住んでいるという。木曾義仲といえば恵奈神社には木曽義仲の奉納したと言われる刀が納められおり、宮司さんはその子孫である。他に高陽院、武蔵局、竜前など、遠山荘は女性に所有されていた歴史が長い。
この説が正しいかどうかは分からないが、言及の多さや話の生々しさからして、恵那山周辺の胞衣伝説は血洗池の伝承が発端ではないだろうか。なぜ類似した話が周辺地域に広まったかについても考える。
[編集] 森林資源と神明社
伊勢神宮の社殿は20年おきに造り替えて神座を遷している (神宮式年遷宮という)。しかし一度の遷宮で200年以上の巨木が1万本も必要となるため神宮周辺の御用地は常に枯渇状態であった。
木曽の一部を含める旧恵奈郡は古代から多くの木材のを産出する地域である。江戸時代初期には尾張地方の急成長による材木不足、そして木曽川を使った運搬の容易さから、恵那山から木曽付近までが尾張藩の管理下に置かれている。そして恵那の木曽地方が御三家筆頭尾張藩の御用地となったことで、神宮もこの地方を
三省堂日本山名事典の恵那山の項には過去に恵那山からも御用材が伐り出されていたことが記されている[1]。
山頂付近のヒノキは、昔は伊勢神宮に奉納されていた。
このような背景を考えれば、恵那郡の産土神である恵那神社に神明社として神宮の天照大神、豊受姫が祀られるのはごく自然な事と思える。
- ^ 現在では長野の木曽郡か中津川でも阿寺山地のような奥地の国有林からのみ伐り出している。ちなみに、木曽川の大井ダム建設に伴って現在の神宮御用材は北恵那交通が陸路で運んでいるという。
[編集] 伊勢神宮と胞衣伝説
古く胞衣は胎児の頭に被って守っていると考えられていた。また恵那郡の山々から伐り出された御用材も神宮の社となって天照大神を風雨からお守りした。ここで「社=胞衣」という見方をすれば、恵那は天照大神の胞衣を産出する地と解釈することができる。
加えて血洗神社に伝えられる胞衣伝説が加われば、この解釈は恵那地方の里人にも支持されただろう。
また、いくら神宮とはいえ徳川御三家筆頭の尾張蕃の山から用材を伐り出すのにはそれなりに配慮が必要だったと思われる。巖邑府誌において御杣山の根拠として胞衣伝説が挙げられているように、つまり神宮にとってもこの胞衣伝説はありがたい存在だったのかもしれない。
天照大神の胞衣伝説が恵那山周辺地域に広まったのは恵那郡 (木曽地方) が御杣山となった事に端を発していると考えられる。結論としてこの伝説が意味するところは:
天照大神の胞衣とは
恵那山周辺地域の素晴らしい森林資源だった!
[編集] 周辺地域の伝承
恵那山周辺地域の伝承についてこの説に基づいて考える。
[編集] 恵那神社/恵那山
役小角が開山したと伝えられる修験道の山だったことからも、元々は葛城社 (一言主) が主祭神だったのではないのだろうか。御用材伐り出しの儀式に訪れた神宮宮司がこの地の産土神である恵那神社の葛城の神にお参りし、「天照大神の胞衣産出の地=伊邪那岐命・伊邪那美命」と言うことでこの 2 柱を主祭神として迎えたと。
また恵那山は頂上が 20 合目と言う珍しい数え方をする山でもある。この 20 というのは神宮式年遷宮の 20 年に由来するのかもしれない。
[編集] 血洗池
奥方の出産の他に、御用材伐り出しの夫役にかり出された人夫や宮司が禊ぎなどに使用するような事があったのかもしれない。出産や伐採作業が終わって安気になったのは伊邪那美ではなく、世話人や役夫としてかり出された里人だったのだろう。
[編集] 湯舟沢
岩村遠山氏の子の産湯に湯舟沢まで行ったというのは少々苦しい所。「洗う」というメタファーと、昭和初期まで雨乞いの儀式に使われていたという話から、御用材伐り出しの 清めや禊の儀式に使われた場所なのかもしれない。
[編集] 三森神社
三森神社は岩村城からもほど近い位置。遠山氏の出産で臍の緒を切るのに使った鎌なのかもしれない。ただ、中世の頃は金物で切るのを忌み竹刀や欠けた陶器などを使用していただろう。
[編集] ホツマツタヱが真に伝えるもの
さて、敢えてここまで触れないようにしてきたホツマツタヱに関して考える (内容はホツマツタヱ参照)。
現在の通説ではホツマツタヱが書かれたのは江戸時代中期 (1704-1829頃/宝永-文政頃) とのことから、ちょうど御用材を伐り出し始めた時代と重なる非常に微妙な時期である。ホツマツタヱがそれ以前であるという話は真書論者にまかせるとして、1709 年以後に書かれたものであると考えるとかなり具体的にローカライズされた内容を含んでいることが分かる。
まずホツマツタヱの中で伊邪那岐・伊邪那美が葛城の山に祈って天照大神が生まれた部分。これは恵那山が役小角によって開山し、元々の主祭神は葛城の山の一言主だったのでは? と言う事と繋がる。つまり
恵那地方の山々から神宮の御用材 (天照大神の胞衣) を伐り出すのに、恵那の産土神である恵那神社の葛城の神にお参りして許しを得た。
と解釈できる。同時にホツマツタヱでは富士山にも言及していることから、当時の恵那神社は一言主 (現葛城社) を主祭神とし、摂社に木花咲耶姫 (現富士社) を置いていたのかもしれない。
そして北に向かって恵奈ヶ岳に納めたという部分。遠山氏夫人が血洗池に祭殿と産屋を設けたとしたなら、北の山とは保古山の事である (そういえば龍泉寺の時代である)。恵那山は北というより東北東にあたる。
しかし三河地方や東海道の東方面から中馬街道を通って岩村-阿木-川上と来る参拝者は、進む方向も恵那山を最初に見る方向も北となる。つまり、恵那山へのこの参道を知っていた (あるいは実際に参拝した) 誰かの証言に基づいていると思われる。
改めて、ホツマツタヱを御用材伐り出しの後に書かれた文献であると見た場合、そこにちりばめたネタの具体性からも、その作者あるいは情報提供者は:
- 血洗池の胞衣伝説を知っていた
- 恵那の地が神宮御用材の地であることを知っていた
- 恵那山に葛城の神が祀られていた (あるいは役小角が開山したこと) を知っていた
- 三河地方あるいは東海道の東方面からの参道を知っていた
と考えられる。具体的には御用材の視察団、伐採の神事を執り行った伊勢の宮司、その他参拝者などの話を参考にした構成と考えられる。そして、当時こんなローカルなネタもきちんと押さえた上であれだけの話が書ける人間となれば神宮に近しい優秀な神学者という像が浮かび上がる。
内容の具体性からも木曽の御用材調達とホツマツタヱ記述はかなり近い時期のように感じられる。偽書扱いされているのが残念だが、これはこれで江戸時代中期の天才がその頃の伝承を伝える「再編 日本書紀」のような文献なのかもしれない。
[編集] この説にまつわる年表
927年 | 延長5年 | 恵奈神社の名 | 延喜式神名帳 |
---|---|---|---|
1185年 | 文治元年 | 岩村城築城(岩村遠山氏開始) | |
1572年 | 元亀3年 | 岩村城落城(岩村遠山氏終了) | |
1709年 | 宝永6年 | 御用材伐り出し開始 | |
1738年 | 元文3年 | 血洗神社と血洗池伝説 | 美濃明細記 |
1751年 | 寛延4年 | 三森神社の鎌 | 岩村府誌 |
1757年 | 宝暦7年 | 湯舟沢の産湯 | 吉蘇誌略 |
1798年 | 寛政10年 | 御杣山に認定 |
[編集] 参照
Torao 2009年7月7日 (火) 22:11 (UTC)