広岡
提供:安岐郷誌
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− | {{ruby|''' | + | [[File:二分団.png|thumb|140px|阿木二分団]] |
+ | {{ruby|'''広岡'''|ひろおか}}<map title="広岡" lon="137.493861" lat="35.409466"/>は藤上の東で大根木の北に位置する集落。 | ||
− | + | 元々は江戸時代初期に[[旧大野村]]の新田として開拓され、後に別れて阿木の枝村となった{{ruby|'''広岡新田'''|ひろおかしんでん}}という集落である。広岡新田は現在の二分団のうち飯沼地内 (大野地区) を除く中組 (旧大柳新田)、牧野、下広岡、清水に相当する。このため現在でも大野を除く二分団全体を指して「広岡」と呼ぶことがある。 | |
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* {{年号|1679}} 広岡新田109石。 | * {{年号|1679}} 広岡新田109石。 | ||
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+ | == 地形 == | ||
+ | [[天狗森山]]、[[橋ヶ谷山]]の山際にあり[[川上断層]]に沿って生活域と山林が別れている。山岳部から流出した土砂によって{{ruby|<strong>[[広岡扇状地]]</strong>|ひろおかせんじょうち}}と呼ばれる特徴的な地形を成している。土地のほとんどは山から流出した花崗岩の土砂を基盤とした[[阿木の地質#第四紀層の形成|第四紀層]]である。 | ||
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+ | == 範囲 == | ||
+ | 広岡という言葉が示す範囲はあいまいで、1)下広岡(特に字広岡の周辺)、2)下広岡と清水(第9区)、3)大野を除く二分団全体、4)二分団全体、と幾つかあるため解釈には注意が必要である。 | ||
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+ | [[新杜]]から六地蔵の辻付近を境に東を{{ruby|<strong>上広岡</strong>|かみひろおか}}、西を{{ruby|<strong>下広岡</strong>|しもひろおか}}とも呼ぶ。 | ||
== 四方山話 == | == 四方山話 == | ||
* 阿木村が中津川市に編入された時に広岡だけは阿木の小字とならないで「中津川市広岡」とした。これはあまり認知されないまま廃れたが、古い住所録や地名辞典などには阿木とは独立した地区として書かれている事がある<ref>角川日本地名大辞典 21 岐阜県 (ISBN 978-4040012100) など</ref>。 | * 阿木村が中津川市に編入された時に広岡だけは阿木の小字とならないで「中津川市広岡」とした。これはあまり認知されないまま廃れたが、古い住所録や地名辞典などには阿木とは独立した地区として書かれている事がある<ref>角川日本地名大辞典 21 岐阜県 (ISBN 978-4040012100) など</ref>。 | ||
+ | * [[巖邑府誌]]では広阜という字が当てられている。阜は小高い丘を意味する。 | ||
+ | * 寅新田とは何処か?{{要調査}} | ||
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2009年7月7日 (火) 16:17時点における版
元々は江戸時代初期に旧大野村の新田として開拓され、後に別れて阿木の枝村となった
目次 |
沿革
- 1604年 (慶長9年/江戸初期) 岩村藩により本格的に大野を開拓[1]。
- 慶安年間 (1648-1651年/江戸初期) 戸口が増え小字も大野、右衛門平、大柳、広岡など新田部落を成す[1]。
- 1679年 (延宝7年/江戸初期) 広岡新田109石。
- 1703年 (元禄16年/江戸初期) 大野新田村56軒158石が広岡新田村として阿木村の枝郷となる[1]。
- 1957年 (昭和32年) 阿木村が中津川市に編入。
地形
天狗森山、橋ヶ谷山の山際にあり川上断層に沿って生活域と山林が別れている。山岳部から流出した土砂によって
範囲
広岡という言葉が示す範囲はあいまいで、1)下広岡(特に字広岡の周辺)、2)下広岡と清水(第9区)、3)大野を除く二分団全体、4)二分団全体、と幾つかあるため解釈には注意が必要である。
新杜から六地蔵の辻付近を境に東を
四方山話
- 阿木村が中津川市に編入された時に広岡だけは阿木の小字とならないで「中津川市広岡」とした。これはあまり認知されないまま廃れたが、古い住所録や地名辞典などには阿木とは独立した地区として書かれている事がある[2]。
- 巖邑府誌では広阜という字が当てられている。阜は小高い丘を意味する。
- 寅新田とは何処か?[要調査]