保古山
提供:安岐郷誌
山陵 | |
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保古山 | |
位置 | N35:26:30.69, E137:29:03.00 |
標高 | 969m |
目次 |
沿革
保古山は古くから東山道・中山道の一帯を見渡せる戦略的に重要な山だった。工業団地方向の中腹には戦国時代の遠山十八子城の一つであった千旦林城 (源齋砦) が存在している。
1703年 (元禄16年/江戸初期) の東野村明細帳 (依馬文書) では「ぼこ山」と呼ばれており、龍泉寺周辺を含めて東野村の萱山、柴山であるため他の村の者は入るべからずとしている。また 1708年 (宝永5年/江戸初期) 4月から翌年7月、1715年 (正徳5年/江戸中期) 1月から 1718年 (享保3年/江戸中期) 10月の再度に渡り、尾張藩領茄子川村と岩村藩領東野村で権利争いを起こしている。
1864年 (元治元年/江戸後期) に武田耕雲斎率いる天狗党が大井宿を通った時は、武装した兵士、領民100人1組ずつで保古山と花無山に展開し警戒を行った。
四方山話
- 現在の根の上高原の周辺には小さなピークが幾つもあり、デコボコしている事から保古山という名が付いたと聞く。
参照
参考文献
- 日本歴史地名大系第二一巻 岐阜の地名, 所三男, 1993年(平成5年), 平凡社, ISBN 978-4582490213